クリスマス礼拝2017inプロテスタント教会


【福岡市南区の教会内部。2017年12月24日、クリスマス礼拝前に撮影】
2017年のクリスマスイブ、福岡市南区にある小さなプロテスタント系の教会のクリスマス礼拝に参加した。
日本の他の都市同様、1960-70年代に急速に都市化が進み、鉄道の整備が追いつかず昔からの県道や市道はラッシュ時の渋滞が激しい地域にその教会ある。
2005年に開業した地下鉄七隈線のルートからも外れている地域である。
強いて言うなら、福岡都市高速の環状線と国道202号のバイパスが近くに整備されているのがせめてもの救いである。
プロテスタント系の教会は、16世紀のイエズス会の布教活動などの影響で九州に多いカトリック系のそれと異なり、デザインや内装は簡素である。
‘17年9月の東京旅行時、日曜礼拝に参加した、やはりプロテスタント系の上馬キリスト教会(東京都世田谷区)もだが、今回訪問した教会も、長崎や天草の教会に漂う中世的な雰囲気よりも単純明快なものを感じるのである。
キリスト生誕に関連する福音書ルカ伝の一節の紹介と讃美歌の唱和が行われ、中村哲氏の活動で有名なペシャワール会などへの寄付の募集も行われた。僅かではあるが、筆者も寄付した。
その後、宮沢賢治の作品を基にした朗読劇も行われた。
礼拝に参加しながら思ったのは、『人間は孤立しては棲めない生物(『人間の集団について』75ページより)』なんだ、ということである。
福音書ルカ伝の一節を聴き、(当時とは異なるのだろうが)行ったこともない乾燥地帯であるパレスチナの風土を勝手にイメージし、21世紀と比べると苦しかったであろう環境の下で助けあって生きていく人々、その中で人々のよりどころとなったキリストの姿を想像した。
筆者も例外ではなく、日本人は宗教観が薄いとはいわれている。
宗教とは違うかたちでの相互扶助の仕組みが成り立っていたのかもしれない。
ともあれ、寄付や礼拝の雰囲気から、教会が小さいながらも人々の拠り所になっていること、小さなコミュニティであっても『ここに居ていいんだ』という拠り所があることが(普段はそういう意識が薄くても)貴重なことだということを再認識するのが、クリスマスシーズンなのではないか、と思った。
余談であるが、司馬遼太郎は『アメリカ素描』で米国のプロテスタントについてこのように述べている。
礼拝のさなかに、この司馬の解釈のことも思い出していたのである。
『カトリックの場合--いまはかならずしもそうではないが--神と人間のあいだに教会が介在していて、独占的なおろし問屋になっていた。古代ヨーロッパ以来、教会が"未開"の人間を飼いならしてきた歴史の結果として当然のかたちだったと思える。』
カトリック教会は神学の進歩とは別個に中世的なものをその体質の中にたっぷり溜めこんできた。
これに対し、
「神と個人が直取引する」
という飛躍から新教ははじまっている。新教においては、個人の信仰のみが決定的な要素であり、そこから個人の尊重や尊厳もうまれる。むろん個人の自律性も要求され、勤勉や作業規律という近代の徳目もうまれてくる。』
『商工業的体験の結果として新教は必要なものとしてうまれ、ひろまったものにちがいない。商工業(あるいは商品経済)は、人間にモノの質と量を教えた。また売買や賃借の行為のなかで、個人というものを訓練した。新教は人類のあたらしい段階でのチエとココロに対し、よく作動した。』(アメリカ素描:文庫版241-242ページ)
また、司馬は『アメリカ素描』以外にも『街道をゆく』シリーズでプロテスタントと近代経済の発展の関係について述べているので参考にしていただきたい。

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