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スターウォーズ #最後のジェダイ から感じたアメリカ文明

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 7月 3, 2017 at 5:31午前 PDT 【『スターウォーズ』最新作『最後のジェダイ』をテーマとした、博多祇園山笠・上川端町の2017年の山笠。2017年7月撮影】 映画を観ることが少ない筆者であるが、先日福岡市内で『 スターウォーズ 最後のジェダイ』を観てきた。 夜は家でゆっくりしたい気分だったので、 夜の部のIMAX3D版ではなく通常の字幕版を観ることにした。 このシリーズの上映を知ったのは、今は閲覧のみにしているが、 筆者の実家の近くにお住まいの映画好きの方のツイッターのアカウ ント経由であった。 映画館では空腹感を紛らすためにポップコーンと烏龍茶を買ったの だが、『Mサイズの』 ポップコーンがバケツ並みのサイズの入れ物に入って出てきたのに 内心閉口しつつ、本編前に3分の2、残りを少しずつ食べ、 3時間かけてようやく完食した。あのサイズをしょっちゅう食べ、 自己管理を誤れば、容易に肥満体になってしまうのではないか、 と思った。 シネマコンプレックスの形態の原型がアメリカにあることから、 運営が日本法人であっても、サービスなど、 アメリカの影響を多分に受けていることは否めない。 『わずか五セント(筆者註:1890-1900年代の物価) でビールをたっぷり飲んで、無料のビーフをおつまみに食う" 自由"こそアメリカの魅力であったろう。同時に、 この魅力がアメリカからもし消えることがあれば、 アメリカそのものが消滅することになるだろう。』(『 アメリカ素描』文庫版269-271ページ)と、 1890年代の食料品が溢れんばかりのフィラデルフィアの街中に ついて司馬遼太郎が生前述べているが、 あの馬鹿でかいMサイズのポップコーンも、見方を変えれば『 アメリカの魅力』ということになるのかもしれない。 さて、映画を観て思ったのは ・敵を殲滅することよりも生き延びること ・ルーク・スカイウォーカーの台詞にあったように、 成功も失敗も含めて次の世代に伝えていくこと ・ 主要な登場人物が敵同士であっても理解しようと努める姿をみてど う思うか ということを、ジョージ・ ルーカスが私達に投げかけているのではないか、 というこ

フェイクニュースと中世の激情

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 10月 21, 2017 at 5:49午前 PDT 【旧い街並みが寺社仏閣とともに21世紀の今も残る博多区御供所町。2017年10月撮影】 『人間が政治の面で歴史時代より利口になったというのは、 ほんのわずかな部分でしかない。』(『人間の集団について』 文庫174ページ)ということを、時には思い出してみたい。 この写真で撮った街並みが、商品経済・貨幣経済や国際貿易の影響を受け続けてきた博多に出来たころと比べて、人間の社会に対する感覚は『進化』しているのだろうか。 時々、ジェンダー問題や労働問題や社会福祉の問題をみて、 2010年代の日本をまるで中世だと皮肉る人がいる。 中世とはどんなイメージだったのか、 ということを読み返してみた。 『アメリカ素描』376-379ページより引用したい。 『中世という時代規定はあいまいだが、…中世にあっては、 モノやコト、 あるいは他者についての質量や事情の認識があいまいで、 そこからうまれる物語も、また外界の情景も、 多分にオトギバナシのように荒唐無稽だった。… そういう認識の空白のぶんを大小の宗教がうずめていた。』 『近代においては、社会をおおった商品経済(貨幣経済)が、 人間をそれ以前の人間と訣別させた。学校ではなく、社会が、 モノやコト、あるいは自他を見る目を育てたのである。』 司馬遼太郎の小説は、筆者は『城塞』や『酔って候(短編集)』 を読んだ限りだが、 ロマンチシズムとリアリズムの相剋というテーマが底流にあるように思え る。 リアリズムの影響力がはっきりしてきたのが近代であるというよう にみえる。 とはいえ、 人類の歴史が中世と近代で完全に分断されているわけではない。 人間の性質は、 どれだけ時代が流転しても変わらないところは変わらない。 『中世では個々の人間が激情に支配されたが、 近代にあっては個々のなかではむしろそういう感情が閉塞し、 どういうわけか集団になったときに爆発する。 中世の激情が集団の中でよみがえるといっていい。 むろん、爆発にいたるまでには、 揮発性の高い言論が先行している。』 この一節、 私たちの文明社会は中世の地続きにある、ということを あらわしているように思

完全アウェイの世界で生き残ること--2015年のフィリピンにて

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【フィリピン・セブ市内。2015年6月撮影】 【セブ州庁舎。2015年5月撮影】 2015年の初夏、筆者はフィリピンに滞在していた。 当時はアロヨ大統領のもとで( 過去から続く種々の格差や治安の問題があるにせよ) 比較的平和に人々が過ごしていた。 転職活動の傍ら、中部ビサヤ地区のセブ市で、後学のため、 サバイバルのため、英語の勉強を本気でやろうと思ったのである。 近年、フィリピン国内は東アジアに近いこともあり、 韓国人や日本人向けの短期留学の語学学校が次々と設立されている 。 いわゆる先進国との経済格差や貨幣価値の違いもあるが、 米国や英国への留学より費用が安く済むことが大きな要因である。 元々、 フィリピンは日本より言語圏や文化が細分化された島国であり、 かつての米国統治の影響もあり、 英語が一定水準以上の教育を受けた階層で普及している。 現在ではASEAN圏の一国として経済成長が進んでいるが、 英語が使えて母国より(職種によるが) 稼ぎのいい米国やカナダなどの英語圏への出稼ぎも多い。 語学学校の若い講師たちや市内の人々は、どこか楽天的というか、 『坂の上の雲』っぽくいえば、 『登っていく坂の上の青い天』の『一朶の白い雲』 のみを見つめて『坂を登ってゆく』ように思えたのである。 当時ボクシング界でブレイクしていた、フィリピンの英雄マニー・ パッキャオの生い立ちも、国民的な人気の空気も、まさにこの『 坂の上の雲』の冒頭のように筆者には映ったのである。 社会科で人口構成のことを扱ったことがあればピンとくるだろうが 、フィリピンの人口構成を考えると、かの国は『少年の国』 であると思った。 いわゆる『発展途上国』 のくくりで日本から見られていた時期が長かったためか、 国の歴史としては短くはないが、経済発展だけみれば筆者には『 少年の国』にも見えたのである。 彼らを含めた当時の同志たちと学校にこもり、 時々街中や郊外の観光地にでかけた。 そんな中、自分たちは経済格差の上に生きている、 彼らに一種の犠牲を強いているんだ、ということも感じた。 また、日本人が明らかに少数派である空間に身を置くことで、 基本的に日本人しか見かけない空間が例外的なものだということを 知ることができた。 たいていの人は、海外旅行するときは『地球の歩き方』 などのガイド本を持っていくが、筆者は『

続・2020年東京五輪後に生きる君たちへ--記録すること

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 11月 9, 2017 at 8:26午後 PST 【唐津くんちの曳山。2017年11月、唐津市・JR唐津駅前にて】 先に紹介した、ブログ『日本語練習帳』の中の人の投稿で、 今後この国で生きるしかない人々(筆者を含む) に出来ることは何か、という言及があったので、 参考までに紹介しておきたい。 自分が日本人ならば、もう政治的行動や、まして発言なんかで憂さ晴らし以外のなにかになりうる時期は過ぎているので、自分に出来ることは記録することだとおもいさだめるだろう。 もしかしたら生き延びていてくれるかもしれない日本文明の後生に伝えるために意見なしの事実を筆記するだろう — James F. (@gamayauber01) 2018年1月4日 https://twitter.com/ gamayauber01/status/ 948833390454759430?ref_src= twcamp%5Eshare%7Ctwsrc%5Em5% 7Ctwgr%5Eemail%7Ctwcon%5E7046% 7Ctwterm%5E3 『自分が日本人ならば、もう政治的行動や、 まして発言なんかで憂さ晴らし以外のなにかになりうる時期は過ぎ ているので、 自分に出来ることは記録することだとおもいさだめるだろう。 もしかしたら生き延びていてくれるかもしれない日本文明の後生に 伝えるために意見なしの事実を筆記するだろう』 事実と社会を通行した観念を写生的に記録することさえできれば、後から来た人間は参考にできるはずである。なにがダメだったか、どこに希望があったのか、丹念に書いていけば、きみよりも賢いんだもの、きみの子孫は、見て取って、感謝するだろう。先人への尊敬を取り戻すだろう。 https://t.co/PdeiC2qZaN — James F. (@gamayauber01) 2018年1月4日 https://twitter.com/ gamayauber01/status/ 948834179784912901?ref_src= twcamp%5Eshare%7Ctwsrc%5Em5% 7Ctwgr%5Eemail%7Ct

2020年東京五輪後に生きる君たちへーー人間の攻撃性について

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 3月 31, 2017 at 11:11午後 PDT 【桜をイメージした竈門神社社務所の天井。2017年3月撮影】 これまでツイッターで皆さんのご意見を拝見していった中で、 筆者の心の底に何か引っかかるものを感じたブログ( とその中の人のアカウント)があった。 『ガメ・オベールの日本語練習帳』というブログである。 https://gamayauber1001. wordpress.com このブログ主の方は英語園にルーツがある方と思われるが、 投稿を拝読させていただく度に、 他の言語圏からみて習得が非常に難しいといわれる日本語を尋常で ない努力の末に習得したのだろうと思わされることが多い。( 筆者が誤解していたらご本人には誠に申し訳ないが) 筆者や皆さんとは、 この方と意見や主義主張が異なる部分があるだろうが、 今韓国語の勉強に四苦八苦している筆者からすると、 とてつもない人なのかもしれない。 この方の投稿で、 人間の持つ攻撃性に関する投稿が気になったので、 紹介しておきたい。 自分自身の戒めにもしたい。 人類が、その文明を通して、芸術を科学/数学や政治よりも上位の価値としてきたのは、人類の治癒不能な攻撃性のせいだよね。 人間の文明は芸術を失えば内と外へ向かう自らの攻撃性のせいで滅びる以外にはなくなってしまう。 — James F. (@gamayauber01) 2017年12月31日 https://twitter.com/ gamayauber01/status/ 947298388499771394?ref_src= twcamp%5Eshare%7Ctwsrc%5Em5% 7Ctwgr%5Eemail%7Ctwcon%5E7046% 7Ctwterm%5E3 『人類が、その文明を通して、芸術を科学/ 数学や政治よりも上位の価値としてきたのは、 人類の治癒不能な攻撃性のせいだよね。 人間の文明は芸術を失えば内と外へ向かう自らの攻撃性のせいで滅 びる以外にはなくなってしまう。』 人間の攻撃性を有効に解体できるのは芸術以外にはない。 芸術は、人間を日常よりもひとつ次元が上がっ

#metoo ムーヴメント、バックラッシュ、選ばれない者について

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 11月 16, 2017 at 8:12午後 PST 【太宰府市・竈門神社にて2017年11月撮影】 先日、職場の同僚の人と男女関係の話をした。 「女性の方が強い時代である。自分(筆者) の場合は真面目過ぎる。 真面目が過ぎると女性につまらないと思われ、選ばれない。」 という話をした。 その後、性別を問わず、『選ばれない』 側の人間の感情を持っていく場は何処にあるのか、 ということを考えてみた。 『酸っぱい葡萄』のイソップ寓話 https://ja.wikipedia.org/wiki/ %E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%B1% E3%81%84%E8%91%A1%E8%90%84 のように、諦めの境地に至り、ひいては生涯独身で終えるのか。 あるいは、異性に対する攻撃性を増すのか。 いずれにせよ、『選ばれない』 者たちに対する配慮を考えていくのが文明社会ではないか、 と思っている。 ところで、 2017年後半から米国のエンターテインメントの業界から始まっ た、 #metoo ムーヴメントというものがある。 参考: 『セクハラ告発#MeTooは日本にも広がるか』(ニューズウイーク日本版) http://www.newsweekjapan.jp/ stories/world/2017/11/metoo. php これは生涯、我がこととして考えていきたい。 ある人に絶縁されたことをきっかけにTwitterから離れてい るが、この問題を追いかけてみると、『思い当たる節』 が少なからずあったのではないか、と思っている。 それがその人の大きな苦痛になっていたのかもしれない。 インターネットでより容易に情報を発信できる時代であり、 前よりもより容易に相手の『痛み』 に想像力を働かせることができるようになっているはずである。 自分を含めて一人でも多くの人が、この #metoo 問題をきっかけに過去の自分自身の振る舞いを振り返り、 反省すべきである。 しかしながら、このムーヴメント、 特に男性の側から『バックラッシュ』のような動きが出てきているようである 。 米国のエンターテインメントの世界に限らず、 これまで人類の世界では男性優位