フェイクニュースと中世の激情

【旧い街並みが寺社仏閣とともに21世紀の今も残る博多区御供所町。2017年10月撮影】

『人間が政治の面で歴史時代より利口になったというのは、ほんのわずかな部分でしかない。』(『人間の集団について』文庫174ページ)ということを、時には思い出してみたい。
この写真で撮った街並みが、商品経済・貨幣経済や国際貿易の影響を受け続けてきた博多に出来たころと比べて、人間の社会に対する感覚は『進化』しているのだろうか。
時々、ジェンダー問題や労働問題や社会福祉の問題をみて、2010年代の日本をまるで中世だと皮肉る人がいる。


中世とはどんなイメージだったのか、ということを読み返してみた。
『アメリカ素描』376-379ページより引用したい。
『中世という時代規定はあいまいだが、…中世にあっては、モノやコト、あるいは他者についての質量や事情の認識があいまいで、そこからうまれる物語も、また外界の情景も、多分にオトギバナシのように荒唐無稽だった。…そういう認識の空白のぶんを大小の宗教がうずめていた。』
『近代においては、社会をおおった商品経済(貨幣経済)が、人間をそれ以前の人間と訣別させた。学校ではなく、社会が、モノやコト、あるいは自他を見る目を育てたのである。』
司馬遼太郎の小説は、筆者は『城塞』や『酔って候(短編集)』を読んだ限りだが、ロマンチシズムとリアリズムの相剋というテーマが底流にあるように思える。
リアリズムの影響力がはっきりしてきたのが近代であるというようにみえる。
とはいえ、人類の歴史が中世と近代で完全に分断されているわけではない。
人間の性質は、どれだけ時代が流転しても変わらないところは変わらない。

『中世では個々の人間が激情に支配されたが、近代にあっては個々のなかではむしろそういう感情が閉塞し、どういうわけか集団になったときに爆発する。中世の激情が集団の中でよみがえるといっていい。
むろん、爆発にいたるまでには、揮発性の高い言論が先行している。』
この一節、私たちの文明社会は中世の地続きにある、ということをあらわしているように思える。
特に右派系が拡散させているといわれている、米国の『ブライトバード』などの『フェイクニュース』の話や日本の『まとめサイト』や2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)の話、極右によるヘイトスピーチの話は聞いたことがあるだろう。これらの媒体には、私たちの心の奥底にある『中世の激情』が色濃く表れているとは思わなくはないか。
元々人間の心の奥底にある嫉妬心や支配欲や暴力性などの醜い性質に訴えかけ、悪意を掻き立て、『揮発性の高い言論』が出来上がり、しまいには『爆発』するのではないか。
2018年の日本の場合、ジェンダーの問題や第二次大戦の戦後補償(とりわけ戦時性暴力)の問題、生活保護制度など社会福祉の問題にみられがちなことである。


『たとえわずかな量の情報でも、読みこみによって十分真実を感ずることができるのである。要は、真実を知ろうとするよりも、錯覚に理性をゆだねることのほうが甘美だったのである。』
嘘を何度でも拡散させれば、何百回も言えば、真実になると思っている連中がいる。
そういう連中は、『錯覚に理性をゆだねる』ことで甘美な感覚に浸っている。
だが、それは筆者を含めたほとんどの人がとらわれがちな『罠』だと思うべきである。
激情を大衆と共有して中世の心に本卦がえりすることのよろこびは近代社会の窮屈さから心理的に脱したくなる上でのカタルシス作用といっていい。それによって国家が亡びることなどは、この心理のなかではむしろ詩的なことなのである。』
政治家(特に保守系や右派系)の中で、この司馬の言及にあるような『カタルシス作用』を発露させる役割を担っている人物がいる。
それがそういう政治家を輩出してきた私たちのレベルといえばそれまでだが、『激情』を『爆発』させれば、すっきりはするのかもしれないが、実際に起こってしまえば悲惨な結果を招くということがわからない人が多くなっているのだろうか。国家の滅亡を招くことになるのではないか。ましてや人々が犠牲になってしまえば元も子もない。
カタルシスの犠牲者になるのは血の通った個々人一人一人であり、あなたのそばにいる人だ。
『激情』を煽る輩には分からないだろうが、国家の滅亡は『詩的』な光景ではないはずだ。
国家が滅亡した、かつてのソビエト連邦の国民が今に至るまでどのような苦難を味わってきたことか。

流転する歴史を振り返り、文明社会を動かすためには、『激情』を制御して社会がメルトダウンしないようにする責任が、とりわけマスメディアや政治家にあるように思っている。

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