都市のつかいすて

【大牟田市内のアーケードの商店街跡の空き地。2016年12月撮影】
毎年の年末年始休暇や夏季休暇には、故郷に帰省する人が多くなる。
故郷がない、故郷に帰れない、帰りづらいという人もいるが。
大都市居住者が故郷に帰省すると、故郷の変化(とりわけ、衰退期にある地域)に愕然とすることがあるようだ。
衰退期の地域は、商店街が歯抜けになったり、消滅したり、若い世代よりも高齢世代の姿が目立ったり、郊外にありがちなショッピングモールすらなくなっていたりする。
福岡県の場合、福岡都市圏と特に筑豊・筑後地方の旧産炭地の『差』に戦慄を覚えることがある。
それでも、まだ人々の住まう光景があるだけマシなのかもしれない。
人々の生活があればまだしも、街自体『使いすて』になることもある。
司馬遼太郎『アメリカ素描』より。
『アメリカにきておどろいたことのひとつは、機能を失った都市を、平然と廃品同然にしていることだった。
フィラデルフィア市を見てそう思った。
日本でいえば、大阪を廃品にするようなものである。』(文庫版247ページ)
フィラデルフィアといえば、MLBファンならばフィリーズを思い出すだろう。
ある人は映画『ロッキー』とシルベスター・スタローンを思い出すだろう。
筆者の場合は、20年以上前に初めて聴いた洋楽の作品のひとつ、『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』(米国では『ボス』と呼ばれることもある音楽家、ブルース・スプリングスティーンの代表作のひとつ)を思い出すのである。
この『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』の動画を観ていただければ、『廃品同然』の街のイメージをある程度想像できるのではないか。



『(都市の使いすてというのが、あるのか)』(文庫版248ページ)
いわば豪儀なことができるほど国土がひろいということもあるだろう。…
資本というものの性格のきつさが、日本とくらべものにならないということもある。この社会では資本はその論理でのみ考え、うごき、他の感情をもたない。労働者も労働を商品としてのみ考え、その論理で動く。論理が、捨てたのである。凄味がある。』(文庫版249ページ)
『日本の場合、しばしば資本は人間の顔をしている。…ちかごろはコンピューター産業がこの街(フィラデルフィア)に根づきはじめて、都市部にあたらしいビルもできて、古風なビルとのあいだに好もしい諧調をかもしだしているという。』(文庫版250ページ)
なお、米国の情報通信産業は、21世紀にはワシントン州(マイクロソフト)やカリフォルニア州(アップル、フェイスブック、グーグル、ツイッターなど)に根付いている。
『「十九世紀的な工業はすべて儲らない時代になった。だからやめる」
という露骨さがアメリカ経済の伝統的な"単純さ"であるとすれば、その象徴が、…フィラデルフィア市ではあるまいか。』(文庫版252ページ)
余談であるが、スプリングスティーンは『都市のつかいすて』に翻弄される人々が登場する『マイ・ホームタウン』という作品も世に出している。



日本の場合、福岡県よりも、『都市の使いすて』というものをより露骨に示しているのは、長崎県の端島や夕張市に象徴される北海道の旧産炭地ではなかろうか。
『世界文化遺産』にねじ込…もとい、指定された端島の場合は、労働者すら使いすてにしていたようである。
労働者の犠牲のうえに成り立っていた『ヤマ』でさえ、『使いすて』の対象になる。
(端島を管理していた現在の三菱マテリアルの母体が、かつて日本が統治していた朝鮮半島出身者や、日本人の労働者に過酷な労働を強いていたという話が出てきているが、世界文化遺産の登録において、日本側がこの事情を黙殺したのではないかという疑惑が出ている。


【『使いすて』の跡、端島。2015年7月撮影。】
『歴史は発展するものではなく、陰のように流転してゆくものではないかという儚さを感じずにはいられない。』(文庫版261ページ)
人類がかつてより賢明な判断をできるようになっているか甚だ疑問に思うことがあるが、それを思えば、歴史は『流転する』という感覚の方がより実態に近いかもしれない。

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