聖者について
Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2018年 3月月31日午後10時53分PDT 2015年の初夏、フィリピンで筆者は当地の若い世代の人たちに英語 で天皇について簡単に説明してみた。 今思えば、(皇室内での『帝王学的』教育というものもあるのかも しれないが)私たちが皇室の構成員を『聖者』だと思っているもの として理解しなければ他人(特に外国人)に説明できないものだと いえばもう少し説明しやすかったかもしれない。 以前から、筆者は日本の天皇や皇室というものは私たちにとって『 聖者』なんじゃないか、と思っている。 司馬遼太郎が『人間の集団について』で触れている『聖者願望』と いうものを思い出してみた。 『「アジアには聖者願望というのがある」…苦力の生活は、人間以 下のものであった。…そういう状況の中で、苦力たちは聖者をつく るのである。…王のようなものを作ってたがいにそれに忠誠心を感 じ、感じることによって最低のくらしの中での形而上的な生き甲斐 をもとうとするのか、とも思えるが、…中国における理想の王とい うのは「無為ニシテ化ス」ということになっている。… 中国人のなかの願望の王というのは、聖人と同義語なのである。』 (人間の集団について・p71) 言われてみると、皇室に限らず、孫文然り、蒋介石然り、毛沢東然 り、ホー・チ・ミン然り、それぞれの国の人々にとって『聖者』な んだと思えば彼等の扱いがある程度は理解できるのではないか。 ところで、『聖者』が国の最高権力者である場合、どこかで『聖者 が間違えるはずがない』という発想に囚われてしまうのではなかろ うか。 そして、それが国家にとって、国民にとって害になるのではないか 。 当邦の人々は、国の『おえらいさん』『おかみ』が間違えるはずは ない、『おかみ』の恩恵で国民が生きていられる、 とどこかで思ってはいないか。 また、基本的人権は国民の義務を果たした『御恩』であるという感 覚、あらゆる福祉を『おかみからの施し』『捨て扶持』 という感覚で見ているのではないか、という印象を受けるのである 。 そして、国の父母たる国の最高権力者が、赤子たる国民に銃を向け るはずがない、赤子に暴力を振るうようなことはしない、とどこか で思っているの