聖者について


2015年の初夏、フィリピンで筆者は当地の若い世代の人たちに英語で天皇について簡単に説明してみた。
今思えば、(皇室内での『帝王学的』教育というものもあるのかもしれないが)私たちが皇室の構成員を『聖者』だと思っているものとして理解しなければ他人(特に外国人)に説明できないものだといえばもう少し説明しやすかったかもしれない。

以前から、筆者は日本の天皇や皇室というものは私たちにとって『聖者』なんじゃないか、と思っている。

司馬遼太郎が『人間の集団について』で触れている『聖者願望』というものを思い出してみた。

『「アジアには聖者願望というのがある」…苦力の生活は、人間以下のものであった。…そういう状況の中で、苦力たちは聖者をつくるのである。…王のようなものを作ってたがいにそれに忠誠心を感じ、感じることによって最低のくらしの中での形而上的な生き甲斐をもとうとするのか、とも思えるが、…中国における理想の王というのは「無為ニシテ化ス」ということになっている。…中国人のなかの願望の王というのは、聖人と同義語なのである。』(人間の集団について・p71)

言われてみると、皇室に限らず、孫文然り、蒋介石然り、毛沢東然り、ホー・チ・ミン然り、それぞれの国の人々にとって『聖者』なんだと思えば彼等の扱いがある程度は理解できるのではないか。

ところで、『聖者』が国の最高権力者である場合、どこかで『聖者が間違えるはずがない』という発想に囚われてしまうのではなかろうか。
そして、それが国家にとって、国民にとって害になるのではないか

当邦の人々は、国の『おえらいさん』『おかみ』が間違えるはずはない、『おかみ』の恩恵で国民が生きていられる、とどこかで思ってはいないか。
また、基本的人権は国民の義務を果たした『御恩』であるという感覚、あらゆる福祉を『おかみからの施し』『捨て扶持』という感覚で見ているのではないか、という印象を受けるのである
そして、国の父母たる国の最高権力者が、赤子たる国民に銃を向けるはずがない、赤子に暴力を振るうようなことはしない、とどこかで思っているのではないか。
韓国の人々の間には、光州事件で軍が国民にM16の銃口を向け、容赦なく国民を殺した歴史から、権力というものは時として国民を殺すものだという同意があるように思える。
【参考: http://onthewayinkyushu.blogspot.com/2018/05/518.html 】
また、中国(共産党政権)の人々も、天安門事件で同様の印象を持っているのではないか。
そのような血塗られた人類の近代史を思えば、私たち日本人は、国家権力が容易に国民を殺す能力を持っていることを忘れているのではないか。


『…聖人とは、聖人出づ、の聖人で、かならずしも儒教的概念にのみ拠らず、諸価値の上に超越して人類をすくう光明で、しかもそれは形而上的な存在でなく、中国人の文化意識らしくあくまでも形而下的なナマミの人間である。古代以来、中国が乱れたとき、ひとびとは聖人が出てこの世を救うということを基本的な願望としてきた。儒教がその聖人の概念を独占してしまったが、しかし儒教以前から土着の信仰としてそれはあったのであろう。(長安から北京へ・321-322ページ)』
『毛沢東氏は、革命は銃口から生れるとし、現に馬上天下をとった。その意味では儒教的概念の聖人とは異る。しかし、馬上天下をとったあと、人民にあたらしい思想を教え、あたらしい倫理や生活規範をおしえ、価値観を一変させた点(しかも古代の聖人たちを一まとめにして海へ投げすててしまった点)、さらにはあたらしい思想の唯一の象徴になってしまっている点、古代から継承されてきた本来の意味(もしくは理念)での「聖人」をおもわせた。(同前・322ページ)』
『…中国人の心理的風土のなかでは、聖人を欲する余燼がのこっているのにちがいない。かれ(毛沢東)はおそろしい政治権力者であるよりも、古代以来の聖人の継承者であると思われているのではないか。…かれが聖人であるかどうかはべつとして、中国人の伝統的な政治への翹望(ぎょうぼう)の心のなかにあっては、多分に聖人のイメージに近いか、それともそれそのものであるに相違ない。…(同前・323-324ページ)』

儒教や漢字、その他中国の文化などの影響を受けてきた東アジア圏が、今なおどこかでこの司馬の指摘にあるような『聖者』という概念が残っているように思える。

『…絶対的な崇拝の対象になる政治家を持つのが人類の幸福であるのか、それとも政治家たちを自分たちの脚下に見おろして罵倒する自由をもつのが人類の幸福であるのか、このことは人類にとって永遠に解決できない課題であるに相違なく、ひるがえって私の好みをいえば、むろん後者である。
ただ、ついでながら、生きた人間を同時代人が過度に崇拝するというのは、われわれ人類は近代というもののおかげでやっと克服できた。日本人も、生きた人間を過度に崇拝することによる惨禍をいやになるほど体験し、やっと常人ばかりがいる社会をもつことができた。ただし、中国におけるような「聖人」を持つ体験を日本人は一度もしたことがなく、荻生徂徠が歎いたように「わが国には聖人が出ない」という風土であるのかもしれない。そういう風土の中の私などが中国の心情的風土を理解するのは、致命的な点でむりであるかもしれない。(同前・325ページ)』

2018年の日本で、ごく一部なのかもしれないが、『常人ばかり』のはずが、『常人』をまるで『聖人』のごとく祭りあげている勢力が存在していることは、もっと怖れるべきではないか。
そして、『聖人』を崇拝することを有形無形の圧力で市井の人々が強いられる日は、案外近づいている、と思っておくべきなのかもしれない。

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