リベラル派はこの先生きのこることはできるか


















いささか長くなったが、twitterの一部のアカウントの投稿を拝見させていただいた中でいくつか紹介させていただいた。
これらの中には、過去の筆者自身の投稿や他のアカウントと共有した投稿、筆者が拝見させていただいた人気アカウントの投稿や発言を振り返ってみて考えさせられるものがある。
紹介させていただいた投稿の投稿主は、筆者の独断と偏見ではあるが、政治・経済・社会などの問題に対する反応、そして現実の社会にいかにして『声なき声』となりがちな『声』を反映させ、ひとりでも多くの方に共有してもらえるようにするか、そのためにどうすればいいのか、ということを彼ら自身の言葉で表現しているように思える。
他の誰かに依存するのではなく。

ちなみに筆者は、当ブログやインスタグラムなどのソーシャルメディアを扱うにあたり、そして、世の中に対する考え方を固めるにあたり、いかにして様々なものごとや言葉を己の血肉化するか、というのが課題ではないか、と思っている。
民主制を持続してきた当邦の行く末に対する危機意識の現われ、これは彼らの投稿と筆者の意識に相通ずるものがあると勝手に思っている。

主に日本語圏のtwitterの、それも特に争いが起こりやすい政治・経済・社会の分野の話題であるが、その中でも『アルファ』の方々と、少なくとも筆者の間には『温度差』があったのだと、twitterをやめてから思うようになった。

かつて司馬遼太郎が随筆で東京とそれ以外の地域の温度差について触れていたが、この『温度差』は2018年の今も変わらないのではないか。
参考: http://onthewayinkyushu.blogspot.com/2018/02/2018.html

また、ソーシャルメディアにどれだけ接しているか、それ以前にどれだけ情報に触れ、自己確立しようとしているか、ということも重要なことではないか、と思っている。

ソーシャルメディアなどでマメに情報を発信できる人は実はかなりの少数派なのではないか、と筆者の旧友をはじめ幾人かが指摘している。
そして、情報の発信者が、どこかで『自分の『ホーム』で正しいことをひたすら言い続けていればいつか分かってもらえる』と無邪気に思い込んでいるのではないか。
まして、馴れ合いやらブロック合戦やらで仲間内だけで己にとって居心地が良い世界を作り、そこに籠ることが果たして本当によいのか。
そういうことに気づいて、現実社会にいかにして関与するか考え、実行しなければ、私たちが暮らしているこの民主政の体制もあっさり瓦解するのではないか。
それをどれだけの『(特にリベラル系と目されている)アルファツイッタラー』が分かっているのか。
彼らは、そして、『リベラル』は、このままで生き残れると思っているのか。

筆者は、ここ最近は映画を観たり料理教室に顔を出したり(司馬作品が主ではあるが)本を読んだり、少しでも(ソーシャルメディアの空間の外の)世の中の空気に触れるように心掛けている。

教養と呼べるものではないのだろうが、そういうことで人生の機微とか世の中のナマの空気とかいうものをもっと知ろうと努めている。
長いようで短い人生、ソーシャルメディアに篭って仲間内だけの閉じた空間から出てナマの空気に触れることが大事なのではないか、と思っているのである。

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