リベラル派はこの先生きのこることはできるか
まあ、日本人の社会判断の基準は、「ルールに従っているかどうか」なんだよね。そのルールそのものの是非や欠陥については、なぜか放置される。— ishtarist@馬の眼🐴 (@ishtarist) 2018年8月10日
野党共闘を議論しながら、なぜか共闘を強いられる小選挙区制の是非はまったく議論されない。
不思議な話だ。
日本人は、社会というものに対するイメージが恐ろしく貧困なんだと思う。たぶん、周りに合わせることで作る共同体、ぐらいの感じでしょ。— ishtarist@馬の眼🐴 (@ishtarist) 2018年8月10日
で、それに対するリベラル側のイメージが、「多様性のある共生社会」。
あのさー。。。
民主主義社会を作っていく上で、日本人が「社会」について抱くイメージがボトルネックになってくる。— ishtarist@馬の眼🐴 (@ishtarist) 2018年8月11日
おそらく日本人は、社会を「みんながシンクロするべきもの」ぐらいにしか考えていない。その世界観なり規範へのシンクロ率が「社会性」と言われる。
シンクロ率こそが、倫理的判断の唯一の基準。
無党派層をひきつけるには、一時的なカリスマ頼み。思想以前の日本人の根っこからおかしくなっている。共同体に属して面倒見てもらうのが当然。共同体から放り出された者は異常者みたいな認識が蔓延している。— 管理人@いちゃいちゃNavi (@Flirting_navi) 2018年8月11日
左派やリベラルが目指している社会像は、共同体に属している者だけが面倒見てもらえるような社会でないはず。共同体の一員であろうがなかろうが、不特定多数が尊重される社会のはず。だったら、内向き体質・共同体意識の克服から始める必要があるのでは?と思う。— 管理人@いちゃいちゃNavi (@Flirting_navi) 2018年8月11日
私がとりわけ日本のナショナリズムに強く反対する理由の一つは、「何があっても同胞だけは助けよう」という意識さえもないこと。人質事件なんか特にそうだけど、この国の人間は"同胞"ですら冷たく切り捨てる。日本(人)にとってのナショナリズムなんてただの差別と被害者意識の正当化でしかない。— 不勉強 (@egeLA5SLQPV55jo) 2018年8月11日
正直、日本社会には『弱者・被害者であること自体が悪である』という価値観が根底にあるとしか思えない。というかそうでもないと、本邦で嫌というほど目にする被害者の落ち度探しや弱者への冷たさの説明が付かない。— 不勉強 (@egeLA5SLQPV55jo) 2018年8月11日
なぜリベラル側がネット戦略に大きく乗り遅れたのか。いろんな要因があると思うけど、結局のところ「権威者が正しい知識を、メディアを通じて広めていく」という前時代的な意識から、権威者も市民も逃れられなかったのが大きいのではないか。#リベラルネット戦略— ishtarist@馬の眼🐴 (@ishtarist) 2018年8月14日
いささか長くなったが、twitterの一部のアカウントの投稿を拝見させていただいた中でいくつか紹介させていただいた。
これらの中には、過去の筆者自身の投稿や他のアカウントと共有した投稿、筆者が拝見させていただいた人気アカウントの投稿や発言を振り返ってみて考えさせられるものがある。
紹介させていただいた投稿の投稿主は、筆者の独断と偏見ではあるが、政治・経済・社会などの問題に対する反応、そして現実の社会にいかにして『声なき声』となりがちな『声』を反映させ、ひとりでも多くの方に共有してもらえるようにするか、そのためにどうすればいいのか、ということを彼ら自身の言葉で表現しているように思える。
他の誰かに依存するのではなく。
ちなみに筆者は、当ブログやインスタグラムなどのソーシャルメディアを扱うにあた
民主制を持続してきた当邦の行く末に対する危機意識の現われ、これは彼らの投稿と筆者の意識に相通ずるものがあると勝手に思っている。
主に日本語圏のtwitterの、それも特に争いが起こりやすい政治・経済・社会の分野の話題であるが、その中でも『アルファ』の方々と、少なくとも筆者の間には『温度差』があったのだと、twitterをやめてから思うようになった。
かつて司馬遼太郎が随筆で東京とそれ以外の地域の温度差について
参考: http://onthewayinkyushu.blogspot.com/2018/02/2018.html
また、ソーシャルメディアにどれだけ接しているか、
ソーシャルメディアなどでマメに情報を発信できる人は実はかなり
そして、情報の発信者が、どこかで『自分の『ホーム』
まして、
そういうことに気づいて、現実社会にいかにして関与するか考え、
それをどれだけの『(特にリベラル系と目されている)
彼らは、そして、『リベラル』は、
筆者は、ここ最近は映画を観たり料理教室に顔を出したり(
教養と呼べるものではないのだろうが、
長いようで短い人生、
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