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ツイッターよさらば

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2月 25, 2018 at 10:49午後 PST 今回、 筆者は7年以上付き合ってきたツイッターをやめることにした。 いわゆる『ツイッター疲れ』といえばそれまでだが、 他の人の喧嘩をタイムラインで見たり、 馴れ合いや派閥絡みのいざこざに巻き込まれることが自分にとって マイナスになり、 それに毒されることが自分にとって良くないことだ、 と判断したからである。 個人的にも、思想信条が近い(と思っていた) ユーザーとオフ会で知り合い親しくなったのだが、 関係を拗らせてしまってブロックされたことが尾を引き、 主に共通の話題だった政経ネタからも離れるようになった。 相手に対して疑心暗鬼になり、( 自認していたかどうかは分からないが) 相手が関心を持っていて時には直接関わりがあったリベラル系の運 動体や党派に対しても内心不信感を持つようになってしまったので ある。 そうなった時点で、 自分にとってツイッターはもう終わりだったのだろう。 それだけでなく、ツイッターから距離を置き始めてから、 ヘイトスピーチの蔓延やかつての連合赤軍事件を思い起こさせるよ うな『過激派』の衝突、 思想信条が近いと思っていた他のユーザー同士の諍い・ 対立の先鋭化などが以前よりも目につくようになってうんざりして きた。 ついには、数年前の『江』の中の上野樹里の台詞にあったような『 もう戦はいやにございます』という心境に至ったのである。 当時はこの台詞を半分ネタとして扱っていたユーザーが筆者を含め て多かったが、 2018年に至って実は大事なことだったんじゃないかと思った。 筆者がツイッターと7年ほど付き合ってきておもったことがある。 まず、ツイッターの基本構造の制約( 元々140字以内しか投稿できない)が、 表意文字である日本語との相性がかなり良いのではないか、 と思ったのである。 言いたいことを17文字で表せる俳句や川柳の延長でみるとわかり やすいかもしれない。 一応ハンドルネームは決めておく必要があるが、 半ば匿名で投稿できる点も利用者にとってメリットが大きい。 これはかつて南北朝時代にあった京都の河原落書のようなものとみ るといいかもしれ

『大人の好き』と『子供の好き』

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 3月 28, 2018 at 5:22午前 PDT 大人の「好き」は多くの場合「この人を大切にしてあげたい」だが、子どもの「好き」は「この人に自分の機嫌をとってほしい」である。しかし、大人になっても子どもの心ままに「好き」を使う人がいるので、横から見ると「どうして好きと言いながら、こんな酷いことをするのだろう」という事例が出る。 — らめーん (@shouwayoroyoro) 2017年11月16日 つまり大人の「好き」は受容と奉仕の精神だが、子供の「好き」は依存心。相手に対し「どんなにひどい事をされても許して優しくできる」「どんなにダメな人間でも選ばれた人だと認めてやれる」といった「我が子に対する母親の愛」を要求してる訳。 — ( ゚д゚)<小林万希 (@wonderMAKI) 2017年11月16日 「あなたなしでは生きられない」という思いは、実は愛情でなく依存してるだけ。不倫に陥るような関係は、本当の愛ではなく「愛されたい欲求」のぶつけ合い。「一人でも生きていけるけど大好きなあなたと一緒にいたい」というのが健全な愛。 https://t.co/MxfOysD864 — ( ゚д゚)<小林万希 (@wonderMAKI) 2017年11月16日 今の日本は愛する能力(奉仕と受容の精神)のない、依存心を愛情と錯覚してる心理的幼児がとても多いんでしょうね。こういう人は配偶者にも「自分の母親の役割」を求めてしまうから人間関係のトラブルが多いし不倫など泥沼の関係になりやすい。 — ( ゚д゚)<小林万希 (@wonderMAKI) 2017年11月16日 DV.不倫. が思い浮かびました。どちらも自分の欲求優先で相手のこと考えない結果がその二つだと思いました。 側から見てると、不倫する人で『体の相性が最高』とか言ってるの人、思いっきり愛でもなんでもなくただの自己欲求を追求してるだけな気がします。 — なんばちゃん📪まるちペインター/『観る・聴く・感じる』なんば史上最初で最高な画集を形にします☺︎ (@Yuki25nanba) 2017年11月17日 『大人の「好き」は多く

『食べごしらえ おままごと』

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 1月 23, 2018 at 8:28午後 PST 石牟礼道子の著書に『食べごしらえ おままごと』という随筆がある。 https://www.amazon.co.jp/%E9% A3%9F%E3%81%B9%E3%81%94%E3%81% 97%E3%82%89%E3%81%88%E3%81%8A% E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%94%E3% 81%A8-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6% 96%87%E5%BA%AB-%E7%9F%B3%E7% 89%9F%E7%A4%BC-%E9%81%93%E5% AD%90/dp/4122056993 石牟礼の幼少期の記憶や水俣の食材を中心とした四季の料理が本作 『食べごしらえ』のテーマである。 石牟礼曰く、 自分の調理は失敗が多くて本職の人と比べるとおままごとのような ものだ、ということである。 出水市のマルイ農協グループ  http://www.marui.or.jp/  の広報誌の連載を文庫版として再構成し、リリースされている。 筆者は一人暮らしの時期が断続的ではあるが約10年程続いている 。 ある程度内容と時期が決まっているが、 曲がりなりにも自分で調理をするようにしている。 自分の調理も本職からすればおままごとのようなものだ。 『お米』より。 『…たとえ水俣中の山が麺麭(パン)になり、 ぴかぴかぽっかり空に向かって香っている。 死ぬまで取りほうだいですと言われても、 わたしはお米が恋しくて、しんそこ神さまを恨むと思う。』( 98ページ) 石牟礼のみならず、筆者を含む日本人の生活や価値観や文化・ 文明の隅々まで米食が浸透していることを、 石牟礼はずば抜けた言語感覚でこんなにロマンチックに表せるもの だと、唸らされた一節である。 この『お米』では、 かつての農村部の女性たちがITなどの技術の進歩が人々の生活を 変えてきた21世紀から比べると相当過酷な生活を送ってきたと思 わされる記述が続いている。 これは余談だが、奥田みのりさんの近著『若槻菊枝 女の一生』  https://www.amazon.co.jp/%E8% 8B%A5%

企業の天下争い 戦国時代は続く

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 1月 19, 2018 at 8:43午後 PST 日本の経済発展について、かつて司馬遼太郎との対談で、 陳舜臣は『いわば企業間のシェアの取り合いで発展してきた。 これは戦争と同じ』と述べ、 司馬遼太郎からの『シェアという概念は、 日本人のメンタリティの中では、 どういうものだとお思いになります』という問いに 『やはり、天下取りじゃないですか』と答えている。 さらに、 『(領地をふやしていくことを)集団でやるんですね。 企業間で戦争をしているんだから、 企業のエゴイズムも出てくるわけです。臨戦体制だから。』 と続いている。 かつて、 ワイドショーなどで小売店のグループの販売競争や価格競争を『◯ ◯戦争』などと謳って時には面白おかしく取り上げていたが、 企業間競争を『天下取り』の争いと、日本の社会を『臨戦体制』 と解釈すれば、あながち間違いでもない表現に思える。 日本人が戦国時代や幕末ものの時代劇ドラマが好きなのも、 そのベースにある司馬の小説が大ブレイクしたこともあるのだろう が、 日本人の感覚は21世紀が始まってもうすぐ20年になる今もなお 戦国時代そのままなのかもしれない。 日本国内の携帯電話サービス会社や航空会社、大手家電小売店… 彼等は市場を拡大するというよりももはや天下取りというか、 領地の奪い合いに血道をあげているように見えてくるのである。 世界各地の領土紛争を日本人は笑えないのではないか。 かつて就職した家電小売店も、 市場全体を大きくするというよりも客の分捕り合戦の渦に呑まれて いた。結局はその渦の中に消えていったが。 共に育つ、互いを讃え尊重するという感覚は、 彼等の中にはないようである。 日本人が臨戦体制にある、と言われて腑に落ちるのは、 そういう経験があるからである。 陳舜臣の ・『臨戦体制となれば、損か得かは、非常に端的な選択法です』 ・『捨てるものはあっさり捨てなければ、先へ進めない。 物ないしは思想を簡単に捨てるというのは、やはり、 常時戦いに臨んでいる姿勢とつながるんではないか』 という指摘。 労働問題や社会保障の問題に対する姿勢をみると、 この指摘を踏まえて物事を理解する必要がある。 『嫌なら辞めろ』『

善意の怪物 元カノと首相夫妻に通ずるもの

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 3月 7, 2018 at 2:16午前 PST ピュア、 純粋という言葉がマイナスの意味で使われることが往々にしてある 。 人や言葉や物事を疑わず、額面通りに受け取る。 そしてそれが悪であっても己が善意でやっていると信じて愚直に実 行したり他人に薦めたり他人を巻き込み被害をもたらす。 こういうピュアな人物をカモとして標的にするのは、 マルチ商法などの悪徳商法だったり、 カルト宗教だったりするのである。 筆者がかつて交際していた女性はまさにその『ピュアな人物』 であった。 怪しげな自己啓発セミナーに入れ込み、高額な『セミナー費』 を払った。自分も巻き込まれた。 後日、 そのセミナー関係者がマルチ商法の首謀者と目されている人物と熊 本地震の被災地に侵入していたことを知り、その女性とは別れ、 ただの友人の関係に戻ることにした。 今はなるべく距離を置いている。 彼女が何かのきっかけで別の悪徳商法や、 最悪の事態としてカルト宗教に取り込まれないか、 ということを危惧している。 個人的な関係やある程度身近な交友関係に悪影響をもたらすのであ れば、 距離を置くなり最悪縁を切るなりするとある程度は被害を回避でき るし、 公的機関や悪徳商法の被害者団体を利用すれば対処の仕方も学べる 。 しかし、ピュアな人物が国家権力の中枢に近い位置にいること、 その人物が国家権力を利用して己の利益の極大化を図ろうとする人 物に利用される・逆に利用すること、そして、 本人が善意であっても結果として国家権力を利用して行政府のあり 方を歪めることが起これば、 それは個々人では解決できない問題であり、 最悪の場合は国民全体、国家そのものに害悪をもたらし、 禍根を残すことになる。 筆者が現首相の妻の周囲にまつわるトラブルや妻本人の問題行動を 聞いたり読んだりした時、 先述の彼女と首相の妻の性格に類似したものを感じたのである。 今回の公文書改竄は言語道断である。 そして、首相夫妻の責任は極めて大きい。 夫である首相は『ピュアな人物』と妻を評していたが、 それがもたらす害悪には無頓着だったのだろうか。それとも、 分かってて妻と持ちつ持たれつだった

終わりの始まり:2011年3月11日 #東日本大震災 #福島第一原発事故

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 3月 11, 2018 at 5:31午前 PDT 2018年。21世紀になってからもうすぐ20年。 歴史に"if"は禁物といわれるが、どうしても"if” を考えろと言われたら、筆者( だけでなく多くの人々が同じことを考えるだろうが) は東日本大震災と福島第一原発事故のことを考えるのである。 エネルギー政策の策定・推進、 原子力発電所の研究開発や建設の過程で、『 もしアレをやっていれば』『 もしあの諫言を意思決定権者が聞いていれば』 というのは多々あると思う。 それを権力者がやらず、反対派の意見を黙殺した結末は、 福島県の浜通り地方の2018年の今を見れば一目瞭然である。 そして、東日本大震災と福島第一原発事故は、 この国に住まう人々の中にあった、権力や国家体制、 ひいてはこの国そのものへの絶望的なまでの不信感・ 嫌悪感を呼び覚ましてしまった、と思う。 2011年3月11日は『終わりの始まり』だった、 と後世に伝えられることになる、という悪い予感がずっとある。 司馬遼太郎の著作活動の根本にあったのは、日本の第二次大戦( というか十五年戦争)参戦について、「 なんであんなバカなことをやったんだ?」という疑問であった。 筆者の場合は、水俣病もだが、特に福島第一原発事故について「 なんであんなバカなことを防げなかったんだ?」 という疑問を抱いたのである。 司馬の著書に手を出すようになったのは、『坂の上の雲』 を当時NHKで放映してハマったということもあるが、 この疑問を個人的に追いかけてみようと思ったからである。 ここで対談集『日本人を考える』に収録されている、 向坊隆との対談を一部紹介しておきたい。 向坊『原子力発電には、 安全性の絶対確保という非常に重大な問題があるわけです。 広島に落とされた原爆は重さにして二キロから三キロの"死の灰" をばらまいたんですが、 原子力発電所にはその灰がトン当たりで溜まっていくわけです。 これを絶対にばらまかない、漏らさない工夫、設備が必要です。』 司馬『万に一つも間違いは許されない。』 向坊『設備の安全性だけでなく、 付近に住んでいる人が安心できるような、 万全の監視体制が