誰に対する『感謝』だったのか:ピョンチャン五輪日本代表の会見に思う


筆者も含めて、近年テレビから遠ざかっている方々が多いとは思うが、それでも、今回(2017-2018ウインターシーズン)のピョンチャン五輪に対し、日本のメディアは冷淡に見ていたか、かなり関心が薄かったという印象を持っていた。
近年の当邦のメディアの動向を見ていると、韓国に対する関心が薄くなっているようにしか思えないのである。それどころか、『進歩的』と言われがちな韓国の現政権に冷淡な立場をとっているように見える当邦の保守勢力に(いわゆるリベラル系とされるところを含めて)メディアが追従しているように思える。
それが、いざメダルラッシュともなると盛り上がってきたのは現金なものである。

各競技の五輪シーズンにありがちな毎度のことではあるが、個々の選手たちや代表チームの努力に着目する以上に、『外野』がメダルの獲得に一喜一憂し国の威信をかけているようにみえるのである。
また、女子選手の活躍や一挙一動をまるでアイドルグループのそれのように扱うという悪癖がみられた。
関心を持つことはいいことだが、百年一日のようなメディアの取り扱いには閉口させられている。
専門性の高いレガシーメディアやインターネット媒体で、各種目の現状や各選手の能力、他国の選手たちの動向にも焦点を合わせた話題、技術面にも触れた、目が肥えたファン達を唸らせるような記事がいずれ出てくるであろう。
だが、五輪開幕までに、世界と日本を相対化するという視点や、各種目や開催地の魅力・見どころを紹介し、一人でも多くの人々が五輪でしか見る・触れる機会がないかもしれない物事や競技を積極的に取り上げてもよかったのではないか。
少なくとも、NHKの高校野球中継や大河ドラマの中での名勝地紹介程度でいいのだが。

さて、五輪日本代表は帰国後に羽田空港などで会見を行なったのだが、筆者は一種の違和感を感じていた。
彼等から口々に「関係者や支援者の皆さまへの感謝」が語られる。
無論、当事者にしか分からない、感謝してもしきれない感情があるだろうと思うし、感謝の言葉の真相を詮索するのは極めて無礼である。
が、それが口々に語られると、どこか薄ら寒いものを感じた人は少なくなかったのではないか。
何か、戦で武勲をたててきた武士達のように思えた。

見ようによっては、あの会見は『世間様』のための記者会見だったのではないか。『世間様』への感謝の言葉を出さなければ許さないという空気が漂ってはいなかったか。
各々が競技に臨むときに感じたであろう、ライバルたちへの率直な感情(例えば技術面などの彼我の差について感じたこと)、大会独特の雰囲気や、世界レベルの技を体感できることの魅力など、競技そのものの面白さを自由闊達に語るような空気があっても良かったのではないか。
それを作り出せないのは、メディアの力量の問題なのか、この国を覆う、世間教というヤツの魔力なのか、内向き志向が強まるこの国の矛盾なのか。
五輪が往々にして国威発揚や国家体制のために利用されることがあるが、当邦も例外ではなかった、と思わされた。2020年の東京大会が、薄気味悪い空気に包まれなければいいが、それは無理な話かもしれない。

『諸葛孔明』などの作家である陳舜臣は、かつて当邦について『臨戦体制』である、と司馬遼太郎に語っている。
五輪は日本人にとって戦争の『代償行為』なのかもしれないし、感覚としては国取り合戦の延長上にあるのかもしれない、と筆者は思った。
サッカーのワールドカップもそうかもしれない。
それが選手や競技団体にとって望ましいことだとは思えない。
と書いたら、『国盗り物語』に手を出したくなった。

参考:
http://www.sankei.com/premium/news/180226/prm1802260008-n1.html

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