公文書と子々孫々への責任:『起居注』はこの国にいるのか
参考記事:
http://www.huffingtonpost.jp/2018/03/02/moritomo-paper_a_23375743/
司馬遼太郎が、1982年の文藝春秋への寄稿文『中央と地方--
山上憶良の辞世の句
『士(おのこ)
を紹介している。
後世に名を残さないことはなんと空しいことか、
これを、『当時古代としてはまれな意識』と、中国人、
『中国の古い本では、
司馬は、中国人の後世意識の文化をあらわす例として、『起居注』
『起居注』は、
『起居注』を『後世にむかって書きつづけるという職』と紹介し、
(唐の太宗)「なぜ古来、
(臣・褚遂良)「
という会話で、『起居注』の存在の根本を表している。
司馬の見解ではあるが、中国人にとって『
中国の政治家に『起居注』が『
司馬は別著で『
国会の場合、議事録の速記者がいるが、統治体制の根本の思想に『
公文書の管理の問題ひとつ取っても、少なくとも後世意識、
公文書管理法という法があるが、それが空文化しようとしている。
それ以前に、
もしかすると、すでに『Point of no return』というところを通過していたのかもしれない。
私たちの世代は、
公文書を粗末に扱うことが、
せめてのも救いは、ソーシャルメディアの隆盛もあって、
彼等がその役割を失ったり、奪われたりした時に、
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