地方と中央 2018 その3 地方を、草の根を、仲間以外を省みない社会運動
Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 1月 2, 2018 at 5:48午前 PST 随筆集『歴史と風土』に収録されている、『文藝春秋』 1982年5月号の寄稿文『中央と地方-- いわゆる都鄙意識について』より、改めて考えてみたいことがあった。 スラングで『ほんこれ』という表現がある。 これまでSNSなどを介して筆者は様々な社会運動を見てきたが、 ずっと心の底にモヤモヤしていたものがあった。 そのモヤモヤを、30年以上前のある日の新聞を通じて、 司馬遼太郎が言い当てていたのである。 2018年に読み返して、『ほんこれ』 と何十回と繰り返したくなったのである。 社会運動家や、各SNSの有力・人気アカウントの皆さん、 人気ブロガーの皆さんには、 司馬のこの寄稿を是非ご一読いただきたい。 それでも、九州の片田舎の弱小ブロガーの言うことは、 東京で仲間内で馴れ合って優越感に浸っている連中には多分読んで もらえないだろう。 社会運動がガタガタになって崩壊していくのを黙って見守るしかな い、という虚しさも感じている。 それでも、 これから日本国憲法の改定に向けて各所で繰り広げられるであろう 様々な宣伝への対処、社会運動の一助となれば幸いである。 『反核アッピールにみる都鄙意識』の章より。 司馬がある日の朝見た、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」 とその後の会合に関する記事について『 まことに中央構造そのもの』と述べている。 当時署名していた京都や大阪の文学者については、『 たまたまお仲間がいらしたからでしょう』と。 『私などは、新聞を見て中央のそういうイベントを知るのみです。 鄙とは、そういうものです。』 中央と地方の距離感。 司馬はベースが東大阪だったこともあり、 距離感について体感することも多かったのだろう。 例として鮮魚商組合や履物商組合を挙げているが、 商工団体が核廃絶運動に起ちあがるとすれば、 種子島の小さな町の同業の店ですら連絡がいくはずだということを 述べている。 商工団体で連絡洩れ・署名洩れがあれば、 そのこと自体が意味をもちかねない、という。 一人でも、1店舗でも、連絡がこないことが、 どういうことなのか。 連絡が回ってこないことについての想像力については、『