苦海浄土に満ちる愛 石牟礼道子さんの訃報に寄せる殴り書き


【八代海。またの名を不知火海。悲劇はここから生まれた。2015年5月1日、水俣病資料館にて撮影】
2018年2月10日、石牟礼道子さんが90歳で亡くなった。
『苦海浄土』を読んだことがある方はどれだけいらっしゃるだろうか。
ファクション(ファクト+フィクション)という形で、水俣病が八代海沿岸にもたらした地獄の苦しみ、人々の分断、そしてあまりにも長すぎる解決(というものがあれば、だが)への道のり、大きすぎる犠牲を想像させるには充分すぎる傑作である。
その傑作を地方から産み出し、当事者の方々が世界に自分達の身の上に起こったことを発信するきっかけの一つをつくることに、石牟礼さんは大いに寄与した。

筆者が水俣病のことをSNSで折に触れて扱うようにしたのは、紺碧の八代海と、その沿岸に現れた地獄のギャップに小さい頃驚愕し、絶対おかしい、と思ったことが大きい。

石牟礼さんは、地元の方々やコミュニティのナマの姿に触れ、ともすれば仲間内で固まり内輪での馴れ合いに堕しがちな東京の文壇や文化人とは一線を画し、いわば叩き上げで傑作を生み出した、と筆者は思っている。

もし、筆者がこの『苦海浄土』にBGMをつけろ、と言われたら、ビョークの”All is full of love”にする。





ミュージックビデオは、どこかしら頽廃的というか淫靡な雰囲気を醸し出しているが、『全ては愛に満たされている』という一言が、『苦海浄土』の行間から滲み出る、八代海の生命体や水俣病の関係者に対する『愛』に通ずるものがあると勝手に思ったのである。

『苦海浄土』271ページ〜272ページより一部引用したい。
ある患者さんのご家族の会話という形であるが、この部分は、私達ならば世の中に対する愛というか憎しみというか凡ゆる感情を溶鉱炉にブチ込んで溶かし込まなければ書けないし理解できないかもしれない。
多分、子供がいれば泣くと思う。
'15年に読んだ時に、あまりにも強烈な印象を受けた一節である。

この前後も合わせて、一読してほしい。

「神さんも当てにはならんばい。この世は神さんの創ってくれらした世の中ちゅうが、人間は神さんの創りものちゅうが、会社やユーキスイギンちゅうもんは、神さんの創りもんじゃあるめ。まさか神さんの心で創らしたものではあるめ」

「…なあとうちゃん、さっきあんた神さんのことをいうたばってん、神さんはこの世に邪魔になる人間ば創んなったろか。」
「(二人の娘は)もしかしてこの世の邪魔になっとる人間じゃなかろか」
「そげんばかなことがあるか。自分が好んで水俣病にゃならじゃったぞ」
「神さんに心のあるならば、あの衆(娘のことに対する陰口を叩く者たち)もみいんな水俣病にならっせばよかもねな」

『全ては愛に満たされている』という感覚が無意識であったとしても理解できなければ、『苦海浄土』の世界観は理解できないのではないか、と思っている。
日本人が、いや、現代文明が、八代海でしでかしたことは、なんとしても語り継いでいくしかないのである。
人類はこれからも過ちを繰り返すだろうが、それでも歴史から学ばなければならない。
石牟礼さんの著書を死ぬまでに一冊でも多く自分のものにしたい。

石牟礼さん、安らかにお休みください。

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