投稿

2021の投稿を表示しています

2021晩秋『どこでもきっぷ』の旅〜JR西日本の宿命

1:積読解消の旅 '19 年冬に初めて読んだ本で、心の底で引っかかっていたノンフィクション書があった。それは今回紹介する『軌道』である。 松本創 『軌道―福知山線脱線事故  JR 西日本を変えた闘い―』 | 新潮社 著者は松本創(はじむ)さん(神戸市を拠点とするライター)。 松本さんは、元々神戸新聞で記者経験があり、近年はノンフィクション書籍の出版で実績を積み重ねている。 筆者が尊敬する人を挙げよ、と訊かれたら、松本さんの名を挙げるだろう。 '19 年に新書版として刊行され一度読了したが、 '21 年春に松本さんからの文庫版の刊行のお知らせを拝読し、文庫版も購入した。 しばらく積読状態だったが、 '21 年秋に JR 西日本が旅行需要喚起のために『どこでもきっぷ』という JR 西管内(+智頭急行)の乗り放題切符を発売したのを受けて、久々に西日本方面の旅行に行くことにし、その時何としても読もうと決めたのである。 その方がきっとより『軌道』のことを理解しやすくなるとも思ったのである。 「 JR 西日本 どこでもきっぷ」・「 JR 西日本 関西どこでもきっぷ」の発売について : JR 西日本 COVID19 パンデミックの『波』の間の 11 月上旬の 3 日間に日程を決め、予め COVID19 対策として PCR 検査での 2019 新型コロナウイルスの陰性を確認した上で今回の旅行に出ることにした。 合わせて、神戸在住の SNS のフォロワーの方とお会いする時間をいただくこともできた。 今回は博多駅発の『ハローキティ新幹線』からスタートし、尾道・倉敷・神戸・富山・鳥取と回った。 のぞみ、サンダーバードやつるぎ・はくたか、スーパーはくとなど主に西日本エリアの新幹線や在来線の都市間列車を乗り継いだ。 その道中、今回使った JR 西が抱えることとなった『宿命』である JR 宝塚線快速電車の脱線事故を改めて知ることとした。 2: 4 ・ 25 に至る軌道、そして 本作『軌道』のテーマは、 2005 年 4 月 25 日に JR 西日本が起こしてしまった悲劇の遺族のひとりである淺野弥三一(あさの・やさかず)さんと JR 西日本幹部の交流 . 、そして、 JR 西の安全対策の

【映画鑑賞記】或る人質の見た地獄の398日、そこから見えてくるもの

この投稿をInstagramで見る Takehisa Matsuda(@matsuda_take)がシェアした投稿 1: 福岡都市高速の天神北ランプと KBC の近くにあるミニシアター『 KBC シネマ』が個人的に『ツボ』な作品をよく上映している。 別の映画をKBCシネマで観た2021年早春のある日、今回触れる『ある人質 生還までの 398 日』のパンフレットが置いてあった。 概要を読んで、これは是非観ようと決め、限定的ロックダウンの中でも制限の範囲内で公開されたこともあり、時間を取って観ることにした。 本作は、デンマークの写真家であるダニエル・リューさん(事件の被害者)の著書:『 IS の人質 13 カ月の拘束、そして生還』(光文社新書)を元にした映画である。 体操選手のキャリアを怪我により断念することとなったダニエルさんがコペンハーゲンで写真家のキャリアをスタートさせ、戦時下の街の人々の姿を写真に収めるようになった。 現地の武装勢力の保護の下でシリアの人々を取材する中、ある日ダーイシュの構成員に通訳と共に拉致されたことで 1 年以上、病魔に苦しみ、ダーイシュの暴力や死の恐怖に囚われながらも拘束された人々と交流を深めて生き延びることを選んだ過程を描いている。 2:交渉について ダニエルさんのご家族や恋人たちはダニエルさんが連絡先に指定していた交渉人のアドバイスを仰ぎ、危機管理専門のカウンセラーの支援を受け、写真の販売や家を担保とした融資、全国の企業や各団体への寄付の呼びかけなどで身代金を集めるために身代金確保の為に東奔西走した。 デンマーク政府は表向き『テロリスト(ダーイシュ)との交渉はしない』『身代金は出さない』との姿勢を示していたが、本作で紹介されていないだけで水面下で動いていたのかもしれない。 これは騒ぎになったらより危険性が増すと考えて隠密行動をとっていたとも考えられる。 人質交渉の専門家「アートゥア」について 今後交渉人に関する著書を読んだり映像作品を観る必要があるが、ふと思ったのは ・ヒト:現地の有力者や通訳などの人脈 ・カネ:活動資金 ・スキル:交渉術や経験 ・語学力:現地語 ・インテリジェンス:刻々と変化する情勢をリアルタイムで掴む が必要だろ

2021年正月、『終戦日記』を読む その2

【その1の続き】 1944 年 9 月に始まる大佛次郎『終戦日記』。 1945 年早春までは何処か『終わりなき日常』という趣である。 しかし、 1945 年 3 月 9 日夜( 10 日未明)を境に『日記』の行間から伝わる『空気』の変化を感じることができる。 その日、東京市(東京 23 区)の東部(主に現在の墨田区や台東区などのエリア)が米空軍の大規模空爆により焼き払われ、 10 万人が亡くなった。 それまで第二次世界大戦を何処かで『他人事』として処理してきた東京・横浜・鎌倉の人々にとって『戦争』が『我が事』となった。 そして日本は『破局』へ暴走し、崩壊していくことになる。 3:終わりの始まり、破局、混沌( 1945/03/09-10/10 ) ( 1945/03/09 ) 『(※東京空爆への反応) … まだ好い気でいる人間が一部に存在する。その為に大部分が苦しんでいるわけである。勝てる筈の戦に破れた原因は決して国民ではない。』 大佛を含めて当時の日本人の大部分は 15 年戦争(満洲『事変』など含む)そのものを『勝てる筈の戦』『大義名分のある聖戦』と思っていたのかもしれない。 それを差し引いておく必要があるだろう。 とまれ、後世からみれば東京市が大規模空爆により焼かれ薙ぎ払われたこの日が『終わりの始まり』となった日であろう。 ( 1945/03/14 ) 『(ある代議士との話より)罹災地に捨子を見るようになりしと。悲惨目を蔽わしむることなり。救済の方法など政府は全然持たず、乾パン少量と握飯を時を遅れて給せしのみ。罹災証明書なければ配給もせず、それの交付を受くる為行方不明の区役所を探す。 … 震災(註: 1923 関東地震)の二の舞をやらぬようにといいつつ、震災時以上に準備なきは如何なることにや。このセンスが敵性円盤(ジャズ等のレコード)の回収をしたり … 愛国的な仕事をしていると盲信させるなり。軍人は行くところまで行くより他に方法にも事情にも無知にてこれをよしとし、政治家は怯懦(きょうだ)にてただ太鼓を打つ。敗戦と明瞭なることを国民は盲にされ、ただ苦痛の転嫁を負う。 … 』 この頃は 3/9 夜の東京空爆による犠牲者など被害者の様子や、生存者が次々と新潟や仙台などへ避難していくことも日記で触れられている。