【映画鑑賞記】社会派サスペンス映画としての #新聞記者 #新聞記者みた

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1:
ここ数年、当邦のエンタメ界に関わる人々の『政(まつりごと)』に関する係わり方が、人によって『接近する』か『無関心を貫く(ように見えるだけかもしれないが)』かのいずれかに分かれているようにみえる。
それは、一種の全体主義的体制がデフォルトである当邦の『かたち』がソーシャルメディア(とりわけツイッター)で可視化されているだけなのかもしれない。そう感じていた。
そんな中、現役の新聞記者(望月衣朔子氏:2019年現在東京新聞在籍)がストーリーテラーとして原案を作り上げた『新聞記者』が社会派サスペンス映画として映画化された。
他の方のツイッターへの投稿や共有(リツイート)の様子をみて、また、(これは意外に思ったが)ユナイテッドシネマのシネコンで上映されると知り、時間を割いて観に行くことにした。

2:
本作『新聞記者』は、前半では『フェイクニュース』と呼ばれる、偽の『ニュース』や『ゴシップ』の特に『製造』の過程が描かれている。
この『フェイクニュース』については、先般NHKの『土曜ドラマ』枠で放送された、そのままズバリのタイトルである『フェイクニュース』というドラマをご覧になった方であれば、「あぁあるある」とか「そんなシーンあったなぁ」とかいう感覚を思い出すであろう。
ドラマ『フェイクニュース』では、ある中年男性がある日食べたインスタント焼きそばにたまたま混入してしまった虫の件をツイッターの自分のアカウントに投稿したところからの『炎上』、そして焼きそばメーカーと菓子メーカーと地方政界の醜聞・選挙戦…というところまで展開していった。

本作の前半は内閣情報調査室が『フェイクニュース』の『製造』『拡散』に関与する、というストーリー設定になっている。
この過程を見ることで、私たちは『フェイクニュース』や『デマ』の拡散のイメージを描き、現実に起こりうる『フェイクニュース』問題に対する個々人の立ち位置を確立する一助になるであろう。

近年の米国大統領選挙などにまつわる『フェイクニュース』(一昔前風に言えば『デマ』)の話題や、『ネット炎上対策』を売りとする情報通信企業の存在、『ステルスマーケティング』の問題、そして広告代理店の存在を考えると、陰謀とまではいかなくても、インターネットに流布する情報や話題は発信者の意図や主観が盛り込まれていること、ある程度加工や情報操作が行われていることは十分に想定しておくべきであろう。
また、『炎上』のことはインターネットユーザーであればたれもが見聞きしたり体験しているはずであり、その過程は本作や『フェイクニュース』でも思い起こすことができる。

人によっては映画のストーリーを現実に起きていること(の写し鏡)だと云い、また人によっては内閣情報調査室が『陰謀』を巡らしていることを示唆している、と云う。
『事実は小説よりも奇なり』という箴言があるが、本作のストーリーが『事実』にならないことを祈るしかないし、個々人で努めるしかないのである。

3:
本作後半は、内閣情報調査室職員(外務省からの出向者)・杉原(松坂桃李)の子供の誕生と元上司・神崎(高橋和也)の死、そして東京新聞をモデルとした東都新聞の記者(シム・ウンギョン)のスクープに至るまでが描かれている。
後半の展開は、以前観た『ペンタゴン・ペーパーズ(米国)』や『共犯者たち(韓国)』『スパイネーション自白(韓国)』といった社会派サスペンス映画を彷彿とさせる展開である。
『ペンタゴン・ペーパーズ』では、新聞社(ワシントンポスト)と米国ホワイトハウスの対峙、そして社主をはじめとした新聞社の構成員たちの価値の統合、という構図がみられる。
『共犯者たち』『スパイネーション自白』では政府側が創造した『ストーリー』に沿う形でニュースや事件が作られていき、その害を被る人々、そして『ストーリー』に抗う人々の姿が出てくる。
参考:当ブログより『ペンタゴン・ペーパーズ』について
『共犯者たち』『スパイネーション自白』について

これらの作品(特に『ペンタゴン・ペーパーズ』)と『新聞記者』が異なる点があるとすれば、それは
『トップの姿が薄い(あるいは見えない)』
ということであろう。

個人の能力だけでは限界がある事態に直面するとき(本作では、自分の命もを左右しかねない大事件のスクープ)、組織がその構成員を守ることができるか、構成員が組織を信頼できるか、で組織の存在意義を問われるのである。
組織の構成員は、いざという時にあらゆる組織(思想信条問わず、営利企業か否かも問わず)が構成員たる個人を守ることができるのか、ということに対する疑問を抱くのである。

『ペンタゴン・ペーパーズ』では、司馬遼太郎風にいえば『諸価値の総合者・ジェネラル』であるワシントンポスト紙の社主(メリル・ストリープ)が『やる』『責任は自分が取る』と腹を括ったことが大きな転換点である。
かたや本作。
トップの影は薄く、現場を見た記者や取材対象の官僚たちの苦悩・葛藤をフレームアップしているようにみえる。

本作の限界があるとすれば、組織と構成員の関係やトップの存在感の薄さであろう。

4:
本作の上映に至るまでには、現役の新聞記者がストーリーテラーとして関わっていることもあるからか、『有形無形の圧力』があったという話を読んたことがある。
また、映画の制作・興行には相当な手間暇やカネがかかるようである。
それを考えると、ユナイテッドシネマなどのシネマコンプレックスで、しかもエンタメ性の高い作品が好まれがちな当邦において社会派サスペンス映画が上映されるのは珍しいことではないか。
また、スポンサーに名を連ねているのがイオングループのイオンシネマであることは注目してもいい。
いささかマニアックな話ではあるが、イオングループと当邦のリベラル系党派の関係性、ということも頭の片隅に置いておくのも一考であろう。

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