#ペンタゴンペーパーズ とアメリカ合衆国の『かたち』 #pentagonpapers

【筆者のインスタグラムの「ストーリーズ」に上げた画像より】
公式サイト
http://pentagonpapers-movie.jp/sp/

先日観た『ペンタゴン・ペーパーズ』について書く。
この映画は、アメリカ合衆国国防総省のベトナム戦争に関する内部文書をスッパ抜いたニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに関する社会派映画である。
本作ではワシントン・ポスト(以下WP)が中心である。

文書の内容はベトナム戦争への反戦運動を活性化させることになるが、軍事政策に及ぼす影響を考えるとスッパ抜かれたこと自体を面白く思わない合衆国政府と、職業倫理をとるか政府との付き合いをとるかで揺れたWPの内部や利害関係者のせめぎ合い、という話の筋が、観る者に「あなたならどうする?」と訴えかけてくるのである。
あなたがWPの新聞記者ならば、編集主幹(トム・ハンクス)ならば、社主(メリル・ストリープ)ならば、役員ならば、法律顧問ならば、政府関係者ならば、どう立ち回るか。
おそらく皆さんがそれぞれの立場に立てば、それぞれの俳優たちが演じたような心理状態になるだろうし、行動を取ろうとするだろう。それぞれにとって最善だと思う策を推すことになるだろう。
政府の有形無形の圧力や役員たちの諌めなどを受けながらも、社主は「記事を出す」という決定を下したのである。
編集主幹の
“Run.”(動かせ)
印刷部門の担当者の
“Yes, Sir.”(はい)
から映画のクライマックスを迎える。
WPは職業倫理を、読者を、そしてブランド・仕事の質についての信用を守ることを選んだのである。

前半は伏線の回収を待つ我慢比べのような展開であるが、クライマックスで筆者が思ったことは、
・人工国家と司馬遼太郎が『アメリカ素描』で評したアメリカ合衆国は、法への忠誠、というかアメリカ合衆国の根本的な価値観、メイフラワー誓約(盟約、契約)に忠実であろうとする国だということ
・メリル・ストリープが演じた社主はWPにとっての『諸価値の総合者』だったのではないかということ
である。

ここで『アメリカ素描』を参照してみることにする。
『(『メイフラワー号の誓約書』)全員が署名をすることによって相互に契約するということをおこなった。
かつ「正義公平な法」に対して服従をちかった。
法が、主人になった。人はそれに対して服従をちかう。小さなアメリカがここでできあかったといっていい。』(353ページ)

社主・編集主幹・役員たち他WP内部で侃侃諤諤があったが、結果的に社主の一存に賭けた形になっている。
そして、裁判所は法の根本原理に則って決定を出した。
迷ったら基本法に立ち返るのが法の運用の原則である。
アメリカ合衆国の場合は、合衆国憲法が最高法規であるが、その根本原理にあるのは、アメリカ合衆国の『かたち』をつくっているのは、メイフラワー契約である、と筆者は(司馬もだろうが)思う。
アメリカ合衆国の国民のたれにとっても『正義公平な法』が『主人』なのだ、という解釈を理解すれば、この映画の底流にあるものが分かるのではないか。
参考:(メイフラワー誓約)
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2554/
(メイフラワー契約)
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E5%A5%91%E7%B4%84-141158

社主について書く。
法律顧問は国家機密に関する法にWPの判断が抵触し、WPが事実上壊滅させられる危険性を訴える。
役員たちは、株式を公開した以上『やらかし』があれば投資家に顔向けできないし銀行などの取引先にも顔向けできない、という心理が働いていたのだろう。
編集主幹や記者たちは、真実を書き、世の中に訴えたい、という職業人の心理に基づき動く。
そして、社主は古い付き合いの友人達(政府関係者を含む)との仲を壊す事になりはしないか、親から引き継いだWPを潰しはしないかという苦悩。
最後は社主自身の判断と責任で「記事を出す」と決定した。

筆者は、社主は『ジェネラル』の役割を見事に果たしたんじゃないか、とふと思った。
なぜそう思ったか。
また司馬か、と言われるかもしれないが、司馬の生前のインタビューで、『諸価値の総合者=ジェネラル・将軍』と関西弁混じりで語っていたのを唐突に思い出したのである。
そして、日本には『肩書だけのジェネラルはいたが、中身がなかったのではないか』という趣旨の発言を遺している。
この司馬のメッセージの『ジェネラル』を社主に置き換えてみたのである。

利害関係者の声に耳を傾け、価値観の違いを踏まえ、相手を尊重し、己の判断と責任で、己の中の声に耳を傾け、決断をする。
利害関係者の様々な価値観を踏まえて重大な判断をする『ジェネラル』でなければ、あの判断はできなかったのではないか、と思った。
あれが日本の組織のトップで、かつ日本人だったら、おそらく握りつぶしていただろう。
もっとも、立場が人を作る、ということもあるだろうが。

アメリカ合衆国の根本原理や、組織の中のせめぎ合いの中で己はどうあるべきかを考える機会にはなると思うが、筆者の考えとしては、少なくとも司馬のフィルターを通してでも、アメリカ合衆国の『かたち』を理解しておかなければ、上っ面だけの理解で終わるだろうと思う。

※余談だが、別ルートで拝見したこちらのブログも合わせてご覧いただきたい。
『記者がヒーローじゃない新聞映画〜ペンタゴンペーパーズ/最高機密文書』
http://d.hatena.ne.jp/saebou/20180415/p1

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