約束 THE PROMISE - アルメニアのことを少々


【2018年2月に日本で公開された映画『THE PROMISE』のポスター。JR博多シティにて撮影】

筆者が出身大学で所属していた運動部の後輩に、アルメニアという、日本人の大多数にとっては馴染みが薄いかもしれないユーラシア大陸のど真ん中の地からの、だいぶ歳が離れた留学生がいる。
彼女が以前フェイスブックに投稿し、折に触れてたびたび触れている件が、ずっと心の中に引っかかっている。
彼女の出自そのもの、ご家族の人生観の形成、故郷の存立に極めて重要な影響を与えているものだからだろう。
その件は、筆者を含む日本人が我が事のように理解できるかどうか分からないが、歴史上重要な事件である。
アルメニア人が1910年代に経験してしまった、ジェノサイドのことである。

2018年2月に公開された、“THE PROMISE” という映画の公式サイトより引用したい。
この映画は九州では公開が終了しているが、公開から早い時期にたまたま観る事ができた。
見逃した方は、今後のネット配信やDVD等でのリリースをお待ちいただきたい。
http://www.promise-movie.jp/sp/about/genocide.html
『1915年にオスマン帝国(現在のトルコ共和国)で起こったアルメニア人をめぐる悲劇。“20世紀最初のジェノサイド”と呼ばれ、150万もの人々が犠牲になったオスマン帝国によるアルメニア人への大量虐殺事件である。』
150万人が犠牲になるということがどういうことなのか、については、福岡市の人口がまるまる消されるということを想像してもらいたい

1915年4月に東部アナトリアの都市ヴァンで発生したアルメニア人による暴動をきっかけに、アルメニア人政治家や知識人など約600人が連行され、その多くが殺害された。これ以降、オスマン帝国政府はロシア国境地帯のアルメニア人を居住地域からシリア、イラク方面に強制移送した。拷問と殺戮が繰り返された、この“死の行進”は、「イスラムの歴史上、類を見ない蛮行」という証言もあるほどだった。』
『アルメニア共和国は、1915年の事件について犠牲者は150万人であり、アルメニア人の民族根絶を狙った「ジェノサイド(集団殺害)」だと主張している。一方、トルコ共和国は事件の実態は戦乱の中で起きた不幸として「ジェノサイド」ではなかったと主張し、両国の国交正常化交渉の障害となっている。欧州議会はトルコのEU加盟の条件として「アルメニア問題」の解決を要求しているなど、100年余りを経た現在でも国際社会を巻き込んだ論争になっている。』
『欧米ではアルメニア人はユダヤ人と同様にディアスポラ(離散の民)と言われ、世界各地にコミュニティを形成し、現在でも600万近い在外アルメニア人が存在する。』
と、映画の公式サイトでは説明している。
筆者はこれ以上の説明が思い浮かばないので、ほぼそのまま引用した。

参考:アルメニア人虐殺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA

アルメニア人のディアスポラ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%A9

映画を観て、自分の中で消化するのに時間がかかってしまったが、その過程で思ったことは、
・自らの言語、文化、宗教、自らの育ってきた社会、ひいては自らの民族自体が消されること
弾圧やジェノサイドをそれぞれの中で己のものとして語り継ぐことの重大さ
・自らの属する民族集団がバラバラになり、世界中に散らばっていく(いかざるを得ない)こと、ディアスポラというものの感覚
について、おそらく筆者を含む日本人の9割は想像ができないのではないか、日本人にとってジェノサイドは他人事だと思っているのではないか、もっと想像力を働かせることが必要ではないか、と思っている。
(東日本大震災・福島第一原発事故で長期にわたり、故郷や同胞から離れ流浪せざるを得なかった人々が実質的なディアスポラだと筆者は思っている)

琉球で、アイヌの社会で、そして、朝鮮半島で、日本人は、他民族の言語や文化や社会の存立基盤を権力(言い方を変えれば国家が有する暴力装置)を用いて抹消しようとしてきたのである。
日本列島では民族として多数派である私達日本人(和人ともヤマトンチューとも呼ばれる)は、少数派に対して鈍感であり、時には加害者としてふるまってきたし、その加害行為すら無かったことにしようとする。

この映画のテーマを、自らに置き換えることができる日本人はどれだけいるのか。
映画では、人権に関する価値観についての欧州圏や米国とトルコとのギャップを想起させる場面あったが、この価値観のギャップを理解できる日本人はどれだけいるのか。

アルメニアの人々は、あのジェノサイドを語り継ぎ、生き延びてきたのである。
劇中に『復讐することは生き延びること』という趣旨のセリフがある。
彼らにとって、生き延びることの意味が極めて重いものになるのだ、と思った。

そもそもの問題だが、日本人として産まれ育ってきた筆者が、彼女やご家族の方々、故国アルメニアの方々、世界各地のアルメニア系の方々の背負ってきたものを、我が事として血肉化できるのだろうか。

余談だが、少数者に関する司馬遼太郎の見解を参考までに置いておく。
『私(司馬)は少数者の心のなかにこそ「人間」が濃厚に含有されていると思いこんでいる。…
人間は、金銭の損にはいくらでも耐えられるが、他からうけるその所属への侮蔑語にははげしく傷ついてしまう。とくに民族的な少数者というのは無数の傷をうけて生きている。このため個々の「人間」としての比重が、その点に無邪気な多数者よりも重いはずだと信じているのである。』(アメリカ素描・文庫版306ページより)
このことを、ナマで知る、想像力を働かせることが、日本人には必要だったのかもしれない。

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