地方と中央 2018 その1 東京中心主義的なもの

【JR東京駅丸の内口。2017年9月撮影】
筆者はインターネットが普及している2010年代の現在、とりわけソーシャルネットワークを通じて、意見や思想信条が近い方々と、仮想空間、時には現実社会で、交流を図ってきた。
その中で、日本において政治・経済・社会・文化などあらゆるものに影響する東京中心主義的なものを感じることが多かった。

ところで、東京中心主義的なものの原型は何処からきているのか、ということを、司馬遼太郎の『文藝春秋』1982年5月号への寄稿文『中央と地方--いわゆる都鄙意識について』
から考えてみることにした。
司馬はこの1982年の寄稿文で、東京中心主義の原型のようなもののルーツが大和朝廷の勃興期にあるのではないか、と推察している。
大和朝廷が『高度に海外文化を身につけることによって、日本列島のすみずみまでの古代的な豪族たちを眩惑し、その文化を畏れさせ、文化の威に服せしめ』たのが大きいと考えていたようである。
つまり、地方の豪族たちに対し大和朝廷が自らの威光を示す要素として海外文化を導入したのではないか、ということのようである。
大和時代の地方の豪族たちは、結果として『中央には敵わない』とみたのだろうか、大和朝廷に服し、自らを中央より意識の上で低い地位に置くこととなったのであろう
『日本に都(と・中央)と鄙(ひ・地方)の別ができ、鄙はつねに都の文化に慴れ(おそれ)伏し、みずからを田舎者とおもい、都は田舎を無価値で愧ず(はず)べきものとする日本文化の基調』は、大和朝廷の時代に確立した、と司馬は述べている。(歴史と風土・252ページ)
平たくいえば、都会が上で地方が下という、私たちの心のそこにある意識が大和朝廷の時代に出来上がってしまった、ということである。

その後、大和朝廷から奈良時代、平安時代に移っても、『文明の光源』、いわば情報などの強力な発信源が都にしかないという点では変わらなかった。
『中央だけが非常に尊貴であって、地方は野蛮という感じ』は、時代が移り変わっても、筆者を含む日本人の心の奥底に残り続けているように思える。
平安時代に登場し、その後19世紀半ばまで日本の統治機構のメインストリームに登場した武士は、初めは中央から離れた地で、彼らが開拓したり所有・支配した農場の主として、自らの地位を築いてきた。
が、『源平藤橘』などの氏姓を名乗るようになってきたことで、中央志向・中央への憧れから逃れることはできなかった。

時代が下り、戦国時代末期から江戸時代は(封建制度に伴う諸問題があったとはいえ)、曲がりなりにも地方独自の文化が育つ余地があったようである。
室町幕府という中央政府が瓦解し、群雄割拠の時代を迎え、徳川幕府の時代を迎えたが、地方には島津や伊達などの有力な藩が存在し続けた。
地方の各藩は学問や産業への投資を行い、『基礎体力』をつけることができた。司馬が小説で素材としている、宇和島や佐賀、長岡などはその一例であろう。
また、筆者の出身地である熊本もそうであろう。
熊本は細川家が移ってきて、加藤清正以下が推進した治水プロジェクトや城塞建築の恩恵を受けたことや京都の文化を持ち込み、継承してきたことが大きいようだ。加藤家や細川家の遺産は熊本県の観光業などの有力なコンテンツの一部として今もその存在感を発揮している。

『地方の時代』というバズワードが以前政官界で流布していた。また、ここ数年は『地方創生』というバズワードが広まっているが、本当の意味での『地方の時代』は戦国時代末期〜江戸時代の三百数十年だけだったのではないか。
明治維新で、律令時代のような中央集権制に回帰し、『奈良時代の都鄙の構造に戻った』という司馬の嘆きにちょっとだけでも耳を傾けてほしい。

2018年という、日本政府が『明治維新150年』という明らかに内向きなキャンペーンを打っている年に至って、いよいよ日本人にとっての情報の強力な発信源が東京にしかないように思わされるようになっている。
『中央への憧れ』が、先進性の象徴ともいえるITの世界でも、日本の場合は色濃く出てくるように筆者には思えてならないのである。
例えば、大手SNS運営会社の本社の日本法人がどこにあるか、をGoogleで検索してみたら、ことごとく東京都内にある。
これらの会社は、米国では主にカリフォルニア州に拠点を構えている。
カリフォルニア州と日本の四島のサイズがほぼ同じということを考えれば、東京に集中するのもシリコンバレーに集中するのも同じことなのかもしれないが、SNS以外のIT企業であっても、日本に拠点がある限り、中の人が日本人である限り、中央集権体制の宿痾から逃れることはできないのかもしれない。
テレビ局や日本のメジャーな新聞社も、出版社も、東京都内を本拠地とするところが多い、というか多すぎるのではないか。
情報を扱う企業は、日本の政治システムの中央集権体制において中央政府と否応無く付き合わざるを得ない以上やむを得ないのだろうが、日本法人が東京に集中していること、(筆者が慣れ親しんできたTwitterの場合を見ればある程度想像できるだろうが)インターネットの利用頻度の高いユーザーが関東に集中すること、が『中央』への憧れ、情報の発信源の東京一極化に拍車をかけてはいないか、という気がしてならない。

SNSを使い分けてみて思ったが、良きにつけ悪しきにつけナマの人間関係の延長上にあるFacebookやLINE、視覚的な要素が強くユーザー次第ではあるがより個性を発揮できる余地があり日本国外のユーザーも受け付けやすいInstagramと比べると、Twitter(およびMastodon)は日本語の『壁』にとらわれ、使い方次第ではあるが、地方の弱体化、東京一極化を促進させている気がしている。
また、掲示板の5ちゃんねる(かつての2ちゃんねる)も東京一極化の促進に寄与しているのではないかと思っている。

『都』への憧れ、もあるのだろうが、『鄙』、つまり地方の文化・政治・経済の不合理さ、『都』と比べてより旧い価値観や地方独自の因習というものの不合理さ、都会に比べて劣る労働条件や労働市場の質、少ない他者との交流の機会、などへの不満や反発の累積がインターネットを介して揮発性を増し、様々な形で爆発している。
そして今後はより東京一極化が促進されるのであろう。

もし、例えば、Googleが稚内に、Twitterが仙台に、Instagramが金沢に、LINEが福岡に、Yahoo!が那覇に、それぞれ日本法人の本社を構えていたら、ITの時代が多極化の時代であるということを行動で日本人に見せつけていたのかもしれない。

多極化の時代であれば、先進的な産業が地方で興ってメジャーになってもおかしくないはずであるが、東京一極集中・地方の衰退の加速という現状をみれば、結局多極化というのは絵に描いた餅だったということになりはしないか。

とはいえ、ITなどの業界人や各SNSなどのユーザーに東京中心主義の広がりの責を問うのは酷である。

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