『食べごしらえ おままごと』


石牟礼道子の著書に『食べごしらえ おままごと』という随筆がある。
https://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%81%94%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%88%E3%81%8A%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%94%E3%81%A8-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC-%E9%81%93%E5%AD%90/dp/4122056993

石牟礼の幼少期の記憶や水俣の食材を中心とした四季の料理が本作『食べごしらえ』のテーマである。
石牟礼曰く、自分の調理は失敗が多くて本職の人と比べるとおままごとのようなものだ、ということである。
出水市のマルイ農協グループ http://www.marui.or.jp/ の広報誌の連載を文庫版として再構成し、リリースされている。

筆者は一人暮らしの時期が断続的ではあるが約10年程続いている
ある程度内容と時期が決まっているが、曲がりなりにも自分で調理をするようにしている。
自分の調理も本職からすればおままごとのようなものだ。

『お米』より。
『…たとえ水俣中の山が麺麭(パン)になり、ぴかぴかぽっかり空に向かって香っている。死ぬまで取りほうだいですと言われても、わたしはお米が恋しくて、しんそこ神さまを恨むと思う。』(98ページ)
石牟礼のみならず、筆者を含む日本人の生活や価値観や文化・文明の隅々まで米食が浸透していることを、石牟礼はずば抜けた言語感覚でこんなにロマンチックに表せるものだと、唸らされた一節である。
この『お米』では、かつての農村部の女性たちがITなどの技術の進歩が人々の生活を変えてきた21世紀から比べると相当過酷な生活を送ってきたと思わされる記述が続いている。
これは余談だが、奥田みのりさんの近著『若槻菊枝 女の一生』 https://www.amazon.co.jp/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E8%8F%8A%E6%9E%9D-%E5%A5%B3%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%94%9F-%E6%96%B0%E6%BD%9F%E3%80%81%E6%96%B0%E5%AE%BF%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E3%81%B8-%E5%A5%A5%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%8A/dp/4877555587
で取り上げられた新潟地方の農村部の女性たちの生活の記述でも、似たような内容が紹介されている。
インスタグラムやラインの存在以前に、通信手段そのものがかなり限られ、教育を受ける場が社会基盤や経済的事情もあって限られていた時代があったことを忘れがちであるが、日本の発展には女性たちの犠牲もあったのだ。

『風味ということ』では、私たちへの警句のような記述がある。
『大都会で口にする、大地と陽の光から遮断されたような野菜の味をなんといえばよいだろう。これは工業化された農産物の味なのだろうか。…
これはもうすでに、わたしたちの躰も、水栽培されつつあるということではあるまいか。ぶよぶよ、ぶよぶよに躰がなってゆく気がして気味が悪い。…』(152-153ページ)
筆者を含め、『インスタ映え』する料理、『美食』を追いかけ鉄道や車や飛行機で東奔西走する私たちやタレント達の姿を見て、石牟礼はなんと思うだろう。
『舌の白痴化』と言われればもう返す言葉がなくなる。
文明社会への危機感というものが、石牟礼の文章の行間から伝わってくるのである。
司馬遼太郎がかつて『人工の言語』と評した、筆者が学んできた法律の言語では、この石牟礼の感覚はとても言い表すことができないのではないか。

少なくとも、躰がぶよぶよになってきた自覚がある筆者はまずはダイエットに励むのが一番だと思わされた。
最近ツイッターで人気が出てきている、土井善晴の著書も読みたくなった。

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