2020年東京五輪後に生きる君たちへーー人間の攻撃性について

【桜をイメージした竈門神社社務所の天井。2017年3月撮影】
これまでツイッターで皆さんのご意見を拝見していった中で、筆者の心の底に何か引っかかるものを感じたブログ(とその中の人のアカウント)があった。
『ガメ・オベールの日本語練習帳』というブログである。
https://gamayauber1001.wordpress.com
このブログ主の方は英語園にルーツがある方と思われるが、投稿を拝読させていただく度に、他の言語圏からみて習得が非常に難しいといわれる日本語を尋常でない努力の末に習得したのだろうと思わされることが多い。(筆者が誤解していたらご本人には誠に申し訳ないが)
筆者や皆さんとは、この方と意見や主義主張が異なる部分があるだろうが、今韓国語の勉強に四苦八苦している筆者からすると、とてつもない人なのかもしれない。
この方の投稿で、人間の持つ攻撃性に関する投稿が気になったので、紹介しておきたい。
自分自身の戒めにもしたい。






https://twitter.com/gamayauber01/status/947298388499771394?ref_src=twcamp%5Eshare%7Ctwsrc%5Em5%7Ctwgr%5Eemail%7Ctwcon%5E7046%7Ctwterm%5E3
『人類が、その文明を通して、芸術を科学/数学や政治よりも上位の価値としてきたのは、人類の治癒不能な攻撃性のせいだよね。
人間の文明は芸術を失えば内と外へ向かう自らの攻撃性のせいで滅びる以外にはなくなってしまう。』




https://twitter.com/gamayauber01/status/947300468459372544?ref_src=twcamp%5Eshare%7Ctwsrc%5Em5%7Ctwgr%5Eemail%7Ctwcon%5E7046%7Ctwterm%5E3
『人間の攻撃性を有効に解体できるのは芸術以外にはない。
芸術は、人間を日常よりもひとつ次元が上がったところで正気に戻す。
ジブラルタルの洞窟でネアンデルタール人がデゥスクを描いていたときから、ずっとそうだったんだよ。
人間が芸術によって自分を救済する努力はいまも続いている。 』
先日来読み返している司馬遼太郎の著書の中にある陳舜臣との対談で、日本人が好戦的な民族であり、『臨戦体制にある(陳舜臣)』というようなことが述べられていた。
日本人だけでなく、攻撃性というのは、たれもが己の中に抱えているのではないかと思っている。
もともとは人々の生活に潤いを与えるはずだったインターネット、特にSNSや掲示板、その中でも日本語圏のTwitterや2ちゃんねる(現在の5ちゃんねる)は、話題にもよるが『芸術を失い』『自らの攻撃性』をより際立たせるものとなってしまっている。
筆者の友人も先日、Twitterで共有されやすいのはが悪口の類だという話をしていた。
日本語圏だけに限らないのだろうが、少なくとも日本語圏のインターネット空間では、悪口とは限らず、ネガティブな話題、ヘビーな話題がウケる・共有される、ということがままある。
人々は現実社会のさまざまな縛りから解放され、往々にして攻撃性を増幅させることがある。
いつしか、筆者も争いの渦の中に巻き込まれ、己を失いかけていたのかもしれない。
『人間を日常よりもひとつ次元が上がったところで正気に戻す』
『人間が芸術によって自分を救済する努力はいまも続いている』
そのための手段は、漫画だったり音楽だったり絵画だったり、人によって異なる。
筆者にとって身近なのは写真だと思っている。
最後はインスタグラムの『推し』になってしまうが、日々投稿されている皆さんの写真を見て、正気に戻ることができているように思える。

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