#metoo ムーヴメント、バックラッシュ、選ばれない者について

【太宰府市・竈門神社にて2017年11月撮影】
先日、職場の同僚の人と男女関係の話をした。
「女性の方が強い時代である。自分(筆者)の場合は真面目過ぎる。真面目が過ぎると女性につまらないと思われ、選ばれない。」
という話をした。
その後、性別を問わず、『選ばれない』側の人間の感情を持っていく場は何処にあるのか、ということを考えてみた。
『酸っぱい葡萄』のイソップ寓話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%E8%91%A1%E8%90%84
のように、諦めの境地に至り、ひいては生涯独身で終えるのか。
あるいは、異性に対する攻撃性を増すのか。
いずれにせよ、『選ばれない』者たちに対する配慮を考えていくのが文明社会ではないか、と思っている。
ところで、2017年後半から米国のエンターテインメントの業界から始まった、 #metoo ムーヴメントというものがある。
参考:

『セクハラ告発#MeTooは日本にも広がるか』(ニューズウイーク日本版)

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/11/metoo.php
これは生涯、我がこととして考えていきたい。
ある人に絶縁されたことをきっかけにTwitterから離れているが、この問題を追いかけてみると、『思い当たる節』が少なからずあったのではないか、と思っている。
それがその人の大きな苦痛になっていたのかもしれない。
インターネットでより容易に情報を発信できる時代であり、前よりもより容易に相手の『痛み』に想像力を働かせることができるようになっているはずである。
自分を含めて一人でも多くの人が、この #metoo 問題をきっかけに過去の自分自身の振る舞いを振り返り、反省すべきである。
しかしながら、このムーヴメント、特に男性の側から『バックラッシュ』のような動きが出てきているようである
米国のエンターテインメントの世界に限らず、これまで人類の世界では男性優位の傾向が続き、女性や子供は様々な局面で男性に劣後する扱いを受けてきている。
かつての『ウーマンリブ運動』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%96%E9%81%8B%E5%8B%95
も相当な攻撃を受けてきたのだろう。
日本でも性犯罪対策や男女平等への取り組みに対しても攻撃が続いている。
これらの攻撃の底流には、男性優位の社会を維持しようとする強い意志が見え隠れする。
少なからず存在する『選ばれない』者たちが『バックラッシュ』のムーヴメントに共鳴し、男女平等の社会を解体し、男が女子供を支配・所有する社会に戻ることが、果たして人類の進化につながるのか。
筆者は男であるが、筆者の心理の底にも、女子供を支配したい、所有したい、という、女子供からみれば醜い感情が渦巻いているのである。
とりわけ筆者を含めた男たちは、己の中にこのような醜い感情があることを認め、そこから何ができるかを考えるべきであろう。
もっと個々人の率直な感情を受け止め、互いに尊重しあう社会にしていくべきだと筆者は考えているが、少なくとも2017-18年の日本はそうならない方向に進んでいるような気がしてならない。
男女の関係に止まらず、福祉政策などの社会保障制度全般、労働政策、教育政策、どの局面であっても『選ばれなくても、それはあなた(選ばれない者たち)のせいではない』という社会であるべきではなかろうか。
『選ばれない』者達を切り捨てていくのは、文明社会の危機につながると思っている。
われわれは人間の集団を生物の次元で考えねばならない時代にきている。…いまとなっては、逆に人間の状況を破壊から救いだす唯一の拠点ともいえるかもしれない。』(司馬遼太郎『人間の集団について』76-77ページより)という言葉は何度でも言いたい。
この #metoo 問題に代表される性に関する問題も、私たちが『生物』であるという次元からスタートすべきなのかもしれない。
なお、この『生物』という表現は、弱肉強食の世界での概念ではない、と筆者は理解したい。

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