2017-2018年の『文明』のかたち:インスタグラムについて


【夕焼け。2017年12月、福岡市中央区・六本松421にて撮影】
『文明』というものはどんなものか。
以前読んでいて、このブログのために読み返している『アメリカ素描』で司馬遼太郎がこのように解釈している。
『文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」を指すのに対し、文化はむしろ不合理的なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。』(『アメリカ素描』文庫版18ページ)
この一節からふと思い出したものが、2017年の日本で『インスタ映え』という言葉を産み出した『インスタグラム』のことである。
ちなみに、このインスタグラムの由来についてはこの記事を参照していただきたい。
『「Instagram」は「Instant Telegram」を略した『造語』です。
 「Instant」は「即席、その場で」、「Telegram」は「電報」という意味を持っています。
 つまり、「Instagram」は写真をその場でインスタントカメラのように手軽に撮影、そして電報のようにアップロードできるアプリであることを意味しています。』
『写真の「撮影」、「加工」、「共有」に焦点が絞られ、写真に特化した、シンプルで必要なことが兼ね備えられたアプリ』
この単純かつ必要最小限に抑えられた機能が人間の普遍的な感情(美しいもの、美味しいもの、カッコいいもの…へのあこがれ)を掻き立て、スマートフォンという通信機器の隆盛と相まって、たれもが思いのままに、インターネットという、これもアメリカ合衆国が産み出した『文明』の利器を介して感情を爆発させている。
司馬がベトナムを訪ねた頃の米国で登場した『フラワーチャイルド』たちの『武器ではなく、花を』というスローガンを思い出した。
機関銃の銃口に一輪の花を挿している写真があった記憶がある。
1枚の写真が100の言葉以上の衝撃を与えることはよくあることだが、人々は美しいものに惹かれ、各々の感情や思想に何かしらの影響を受けるのである。
この人間の感情は万国共通ではないか、と思うようになった。
一方、ツイッターやフェイスブックやライン、および類似のソーシャルネットワーキングサービスはどうしても言語圏(特に日本語や漢字などの表意文字とローマ字などの表音文字)の壁にぶち当たるという限界があるように思える。
ツイッターや微博は『表意文字』との相性が良さそうである。
インスタグラムは、1枚の写真があれば(キャプション欄で説明書きが必要な場合が多いが)言語圏の壁を必要以上に意識せず、見る側は単純に『いいね!』マークを指で軽く触る(タップする)だけで済む。
この機能はヒトの知的生命体たる原始的な感情に訴えかけるものだったのかと思う。
その点を考えると、個人の感想にすぎないが、インスタグラムは極めて完成度が高いサービスであると思う。
文明のみであなたはOKですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか(『アメリカ素描』文庫版21-22ページより)
インスタグラムを始めてしばらくしたとき、この一節を思い出さずにはいられなかった。
自分の投稿に対して他のユーザー(とりわけ外国の方)から反応があったとき、『写真を撮る、上げる、『いいね!』をタップする、という単純明快な機能を使えればあなたはOKですよ、いつでも、気楽にどうぞ』と世界中のユーザーから言われた気がしたのである。
司馬が『アメリカ素描』で述べた『文明』のかたちは、2017-18年の今、その一例としてインスタグラムというかたちで私たちの目の前にある。

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