『小異』へのきびしさ

【同じように見えるがひとつとして同じ形のものはない。モミジ。佐賀県神埼市・九年庵にて2017年11月撮影】

国政選挙前、特にTwitterの一部の界隈でよく見かけたことだが、それまでは良好な(そう見えるだけなのだろうが)関係だった人々が、意見の相違やはたから見れば些細なこと(当事者には重要なことだが)で分かれ、時には敵対関係にまで変化していくことがある。

『小異を捨て大同団結』というのは理想的であるが、1970年代に司馬遼太郎がこのような指摘を残している。
『中国人をのぞき、アジア人は一般に小異にきびしくて大同を忘れるところがあり、この点は日本人の場合もかわらない。ただ日本人は商売をするときに会社でやるために、会社への忠誠心という別の場でそれが保たれている。一般にアジア人というのは知識人になればなるほど小異にやかましくなり、小異についての論理がするどくなる。』
(『人間の集団について』文庫版143-144ページ)
これまで見てきた政党の離合集散やかつての『内ゲバ』のことを思い出すと、この司馬の1970年代の指摘にあるような宿命が、自分達の集団に関する意識、とりわけ政治に対する意識につきまとっていることを、私たちはもっと理解しておくべきなのでないか。

『人間の集団というのは、多くの場合、敵によって成立している。敵を持ってしまった集団というのは、じつは敵によって集団の理性と感情を作らされてゆくために、「同じ民族じゃないか」という勝海舟的な発想は、通用しなくなるものらしい。』
(195ページ)
一度対立し絶縁どころか下手すれば憎悪を剥き出しにしかねない関係に陥り、時には『転向』することもある分野(日本だと特に接客業では政治や宗教やスポーツだと注意するよう教育される)について話題にし、突っ込んだ話をするときはこういうことがあることを念頭においておくべきであろう。
もっとも、21世紀のいまは、インターネットの空間を出てリアルで、ナマ身の人間として腹を割って話す機会が多ければ対立が先鋭化しにくくなるのではないかと思うし、ユーザー同士でも対立や絶縁や憎悪にとらわれずもっと違う関係が続くのかもしれない。
が、過去の政治闘争で何があったかを振り返ると、それは幻想かもしれない。

桑原武夫氏が巻末で重要なことを述べているので紹介しておく。
『「われわれは人間の集団を生物の次元で考えねばならない時代にきている」というのが著者(司馬)の基本的な姿勢であって、人間は、食べて、寝て、愛するという素朴な幸福を失ってまで、なぜ「正義」の名のもとに残虐をおこなわねばならぬのかという疑問がつねにある。それは人間が集団を、とくに国家という強力な集団組織をつくるからである。集団は必ず「正義」の旗じるしを掲げて統合をはからざるをえない。』
これから自分が死ぬまで、人間の集団の特性というものを意識し続けていきたいし、そうすべきだと思っている。

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