原点 #水俣病展2017 を観て(その2)

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【チッソ水俣工場前。2017年3月】

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【水俣病展2017のポスター。2017年12月、熊本県立美術館分館にて】
※今回から「です・ます調」をやめます。
今回は長くなるが、まず皆さんに、この文章を読んで欲しい。
『政権というのはそれが成立した当時の原形の性格から離れることが困難なように思える。
日本の例でいえば、太政官という徹底的な官尊民卑政権が、明治憲法下の明治政権になってもその遺伝的体質をうけつぎ…敗戦によってもろにつぶされるのだが…いまなおたとえば水俣病に対する「官」の態度がそうであるように、極端に「民」に対抗するものという組織の思考法がある。
公害という重大な「民」の問題がおこる場合、日本の政府や官庁は、悪気でなく、これをどう思考法しどう始末していいのか分からず、一種の痴呆状態になる。その理由は、「民」をなっとくさせるような思考法が、伝統として存在しないか、きわめて乏しいためである。
 「官」はむしろ「民」の一揆的昂奮状態に対しわそれをいっそ敵として考えてみるほうが、思考の反射作用としてラクであり、自然でさえあるといったようなところがあって、それが自然な思考法であるために悪気などはないのでないかと思ったりする。』
(司馬遼太郎『人間の集団について』文庫版217-218ページ)
これは2017年の文章ではなく、1970年代に書かれたものである。
1970年代はちょうど水俣病の患者さんたちを中心にチッソや熊本県や日本政府に対する抗議活動が活発に行なわれていた時期である。
『生物の次元』からきた叫びというべきか、根源的な感情を発露し、世の中に異議申し立てをした患者さん達に対して、為政者や資本家をはじめとして、この国は何をやったのか?
答えは、『抑圧』である。
ちなみに、この司馬の文章では一般民衆の態度がどうだったかを読み取るのは難しいが、一般民衆も『長いものに巻かれ』たり、被害者に対する『ケガレ』意識を発露し、患者さんに対する抑圧や差別、今風に言えばヘイトスピーチ・ヘイトクライム的なものもしでかしたのである。
これは人類共通の醜い特性だといえばそれまでだか、少なくともこの国は弱い立場の者には冷淡であり、ある人は他人を、東京は地方を、平気で利用し、必要がなくなったとみれば切り捨て続けている。
どのような思想信条であっても、日本の社会はこの悪癖から逃れることができていない。
今後もそうだろう。
司馬が触れた水俣病の問題に限らず、2017年の今日本が直面している諸問題の解決策を考えようとしても、この司馬の指摘があまりにも的確すぎるゆえ、もうどうしようもないのでは、という絶望感にとらわれることがある。
それでも、自分たちにできるのは、SNSやブログや掲示板などを含めた凡ゆる手段で世の中に己の意思を示し続けることである。
それしかできないし、それが一番有効なのである。

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