大多数、神聖、脅迫:クリスマスシーズンに思ったこと

【天神地下街のクリスマスツリー。2017年12月撮影】
【クリスマスイブの天神界隈。イベント用のロンドンバス車上より2017年12月撮影
『日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫』であると、司馬遼太郎は『街道をゆく 陸奥のみち 肥薩のみち』の中(文庫版67ページ)で、東北地方への稲作の拡大の過程についてこのように述べている。
この他にも、『街道をゆく』シリーズの他の作品で日本人が中央への均一化を志向する傾向があることを司馬は指摘している。
ところで、日本のクリスマスシーズンは、1980年代の平成バブル期以降だが、恋人や伴侶と過ごす、夜は閨で愛を語り、結ばれることが最上のもの、という『かたち』が出来上がったように思える。
さまざまな事情があって恋愛関係というかたちの交際ができない人々、婚姻関係という人間のつながりがつくれない人々、家族という人間の集団の形態をつくれない(あるいは崩壊している)人々、など、このホリデーシーズンを心から愉しめない人々のことを忘れてはいないか。
そういう立場の人々に、愉しむことをお仕着せがましく押しつけようとしていないか。
また、華やかな世界を誇示し、己が優位であることに酔い、驕るようなことはないか。
【参考:顕示的消費】
https://kotobank.jp/word/%E9%A1%95%E7%A4%BA%E7%9A%84%E6%B6%88%E8%B2%BB-1700935
クリスマスに限らず、この国の多数派があらゆるものごとに『かくあるべし』という基準をつくり、それを至高のものとし、他者に結果として圧力をかけていることに無自覚すぎはしないか。
特に東京のひとびと。
己を誇示し、他者の犠牲の上に立ち、美食に酔い、享楽に耽り、セックスすることだけがクリスマスなどのホリデーシーズンじゃないはずだ。
(このような『かたち』にとらわれているのは私自身も例外ではない、とこれを書いて思った。)
ひとりでもいい。ほんのちょっとだけでもいい。他者に対する思いやりを思い起こして欲しい。それがこの文明社会を持続させるためには大事なのではないか。

ということを下書きで思いつくままに書いた後、福岡市内のあるプロテスタント系の小さな教会のクリスマス礼拝に参加した。
その後思ったことは別に書きたい。

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