『とほうもない人間喜劇、もしくは悲劇』としての『関ヶ原』
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約1ヶ月かけて、『とほうもない人間喜劇、もしくは悲劇』
『太閤』豊臣秀吉没後の勢力争い、
それらがないまぜになり、
本作を読み、筆者は司馬が『国民作家』
ロマンチシズムを取るかリアリズムを取るか。
狡猾かつ計算高く『天下取り』
石田三成なども含めて、
『読めばわかる』といえば雑だが、まさに『
上巻にある石田三成と島左近の会話のシーンより、三成(
『町の繁昌が豊家(註:豊臣家)
『大坂が繁昌であると申されるが、
これは司馬が彼の考えを島左近のリアリスティックなキャラクター
上巻は、21世紀風にいえば『背広組』
中巻は、主要キャラクターたちがいよいよ秀吉の死去を受けて、『
ちなみに、
そして、下巻。
石田三成自身の性格として、
また、序盤で福束城という小城が出てくるが、
徳川家康の慎重に慎重を重ねる姿、
関ヶ原での戦闘では、
終盤の三成の逃亡シーンでは、
関ヶ原の合戦なかばにして三成はようやくそのことを知った。
人は利のみで動き、利がより多い場合は、
と権力社会について痛烈な皮肉を司馬は書いている。
司馬との対談で度々登場している、高坂正堯氏(政治学者)
『関ヶ原の戦いは軍事的な決戦という性格よりも、
『…少々思い切った比喩を用いるならば、関ヶ原に至る状況は、
『…人々の行動は歴史の流れを変えることはできなくても、
『…関ヶ原の戦いでは勝敗が問題ではなくて、
参考:高坂正堯-wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/
『生物の次元で考え』てみると、
これは、
『関ヶ原』を読み進めるうちに、国家レベルの権力闘争に限らず、
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