『関ヶ原』を読んで その1


『…ヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。そういうぐあいに、話をすすめよう。』
(文庫版10ページ)
という冒頭の一節に惹かれて読みはじめた『関ヶ原』。

上巻は石田三成と加藤清正の確執、それを野望のために利用する徳川家康を軸にストーリーが進む。

文庫版71ページにある三成の家臣・島左近のセリフより。
『古来、支配者の都府というものに、人があつまるのか当然で、なにも大坂にかぎったことではない。利があるから人があつまる。恩を感じてあつまるわけではない。』
『…豊家(豊臣家)の恩、豊家の恩と殿(三成)はいわれるが、そのかけ声だけでは天下はうごきませぬぞ』
これは司馬の考えの基にある、リアリズムの表れではないか。
司馬自身の考えを登場人物に喋らせているのだろう、と筆者は思った。
司馬のキャラクター設定より。
豊臣秀吉の天下統一後、官僚的統治機構による国家運営の重責を担うこととなった石田三成
ロジスティクスに関する才覚や重商主義的な地方経済の活性化策の成功を受けて、三成は秀吉に重用されることとなった。
彼の性格や癖、仕事ぶりは時として人に疎まれがちであった。
文禄の役・慶長の役(韓国では壬辰倭乱と呼ばれる)での『活躍』を自負している加藤清正などの武断派は、三成に対し確執があった。
彼等の性格の相違や政権内での確執が、その後の関ヶ原合戦や大坂冬の陣・夏の陣による豊臣政権の崩壊の遠因ではないか、と司馬はみていたようである。
三成が『正義』というものを重視する性格であるという設定。曲がったことを嫌う、感情が表情や癖に出るところ、これは筆者の短所にも似ているように思えてきてならなかったのである。
三成の登場シーンを読むたび、自分のことを書かれているような気分になっていった。

権力闘争や国家運営の過程に限らず、家族間や恋人同士であっても側から見れば些細なことに見える(当事者には重大なものごとであろうが)性格の相違や確執というものは生じうるものである。
その相違・確執が歴史に影響を与えうるものだ、と司馬は言いたいのかもしれない。
『生物の次元』でものごとを考えようとすると、ホモ・サピエンスたるヒトの感情というものを、決してバカにしてはいけない、とも言えるのではないか。

このことでふと思い出したのが、『バタフライ効果(英: butterfly effect)』という言葉である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%8A%B9%E6%9E%9C

『力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。』
自然科学の分野から出てくる言葉だが、ヒトの感情のちょっとした行き違いが社会に重大な影響を与える、という、いささか強引ではあるが、三成と清正の確執も、一種の『バタフライ効果』だったのかもしれない、と思わさせる。
司馬はファクションという形で関ヶ原合戦を描いている。
評価は大きく別れるが、史料をかき集め、人間の感情を織り交ぜ、現代の生身の人間に近いもの、司馬流ではあるが歴史の教訓を読むものに感じさせる傑作を産み出した司馬は、稀代のストーリーテラーであろう。

これは余談だが、司馬の作品にハマると説教臭くなるとか、司馬の見解を絶対のものとしがちになる、という話を聞く。
筆者もその悪癖に染まりつつあることを自覚する必要がある。
若い世代に対して辛気臭いことを言い出し始めているので、そろそろ筆者も焼きが回ってきたのかもしれない。
ましてや、女性にデートなどを楽しんでもらうべきところで平気でこういう悪癖を出すようになると嫌われるだろうし、自らを戒めなければ、多分、結婚はできないだろう。
自戒。
( http://onthewayinkyushu.blogspot.com/2018/07/blog-post_29.html へ続く)

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