文明と文化とSNS:『アメリカ素描』から考えてみた


【本文と関係ない画像です。文明の象徴としての鉄道のイメージです。2017年11月JR博多駅で撮影】
自分が人生で迷ったときに読むようにしている本がもう一冊あります。
司馬遼太郎の『アメリカ素描』です。
私たちが生きている社会の基盤にある『文明』『文化』について、1980年代に司馬が書いた著書であり、アメリカの社会の底流にある『何か』を想像するのに有用な本であると思います。

『普遍性があってイカすものを生みだすのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はなさそうである。』(文庫17ページ)
facebookやInstagramやTwitterなどのSNSやその基盤たるインターネットという通信手段の発祥の地は、アメリカ合衆国です。
司馬遼太郎が1980年代に述べていたことが、2017年の今も新鮮な感じを受けるのは、アメリカ合衆国が今もって技術革新や新しい社会的価値観の形成をつづけていることが大きいのではないかと思います。
誰もが気楽に使えて「イカす」もの(例えば2017年の場合は『インスタ映え』に象徴されるInstagram)を日常的に使えるのは、アメリカが生み出した『文明』の恩恵ではないでしょうか。

『人間は群れてしか生存できない。その集団をささえているものが、文明と文化である。』(文庫p18)
『文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」を指すのに対し、文化はむしろ不合理的なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。』と司馬は述べています。(文庫18ページ)
この国のあらゆるものごとをを振り返ってみると、外国から新技術やそのベースとなる知識を輸入したり、外国の影響で国内の技術や文化を再発見することが多いのではないでしょうか。
2017年の今、私たちは電子空間を介して群れをつくって生きています。
「文明」をこの電子空間に置き換えてみると、「文化」を電子空間の中でやりとりされている多種多様な情報・話題・議論と置き換えてみると分かりやすいかと思います。

日本の中で起こる様々な問題、とりわけ社会や政治・経済の問題への日本人のとりがちな対応を他国の事例と比べてみるために、『文明』と『文化』の違いという、一種風変わりなこの司馬の視点も参考にしてみるのも重要ではないかと思わされます。

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