同じ釜の飯:「つながる」ということ

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 -






『ツイッターの怖いところは、何年も仲良しのフォロワー同士だと思っていたのに、たった一文のツイートが気に入らなかったというだけでフォローを外したり、あげくはブロックしたりするようになること。自分で思ってた以上に、フォローという結びつきが薄っぺらかったことに気づくこと。』

『「利害関係抜きでの友達は学生の間しかできない」的な事を学生時代に言われてたけど、社会人になってからの、仕事を通じた信頼をベースとした強固な友人関係に比べると、マジで薄っぺらくてカスみたいなもんなんだけど、学生時代にその辺の感覚ってホントに理解できなかった』
この2件の投稿と関連投稿を読んで、twitter経由で知り合い、オフ会をきっかけに仲良くなっても、あるきっかけであっという間に縁が切れてしまったことを思い出しました。

『同じ釜の飯を食う』という表現があります。
http://kotowaza-allguide.com/o/onajikamanomeshi.html
同じ共同体が同じものを食べることによって、同体としての帰属意識を持つこと。あるいはそれを強化すること。
ある程度の期間、他人同士が同じ家で起居を共にする、ないし、学校や職場・軍隊で生活を共にする。』
SNSで得た人間関係があっさり切れても、大学時代からの友人や先輩・後輩たちとは定期的に顔を合わせようという気持ちが続くのですが、一体どういうことかと思ったら、『同じ釜の飯を食った』という感覚がどこかにあるのかもしれません。
私は地方でSNSよりもナマの人間関係を見る機会が多かったので、よりそういう感覚が強いのかもしれません。
一方、関東や関西だと、オフ会などでSNSで得た人間関係をより強固なものとする機会が地方よりも多いのかもしれない、と思います。
しかしながら、機会が多い分縁を切り易くなっているのかもしれません(都会・地方にかかわらず)。

SNSを過信しすぎてはいけないし、現実の人間関係の延長上にあるものだと思っておくべきでしょう。
縁を切るならば上手く切らないと遺恨が残ると思います。

一つの物事、特に特定のSNSに依存するのは危険だと理解しておきたいし、一人でも多くの人が理解してほしいと思います。
それを分からないと、自分が人気者だと舞い上がって勘違いしたり、人に優位に立とうとしてしまったり、無用なトラブルを起こしてしまったり、遺恨なり確執を残したりするのではないでしょうか。
自戒を込めて。

コメント

このブログの人気の投稿

#福岡市長選 観察記 その2

春の九州路をゆく 長崎・日田・柳川

水俣の青い空の真下で:暴力について