居心地:『群れる』ということ

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 -
【イメージ:博多駅博多口にて、2017年11月15日撮影】
私たちはたとえ『ぼっち』であっても、家族や近所、あるいは学校だったり職場だったり、何かしらの趣味や考え方が似通った集団に関わりがあるものです。
自分が属している集団が自分にとって居心地が良いと思っていても、何かのきっかけで居心地が悪くなったり、往々にして追放されたり、自ら去らざるを得なくなることがあります。
ーなぜ、私たちは群れたがるのか。
司馬遼太郎はこのようなことを述べています。
『人間はどの集団かに心か身か、それとも心身ともに属していないと不安だという気持ちがあって…近所合壁の密集性が濃密で、しかも大ていの人間が会社に属している。その組織と秩序の中で毎日暮らし、仲間をもち、ずっしりと会社の規律の拘束を受け、会社人事という甘美な迷信をもち、それがために拘束されるということにはたっぷり充足している。…国家もまた拘束力のひとつである。』(『人間の集団について』(文庫版108-109ページより)
この指摘は、ホモサピエンスたる人間、とりわけ私たち日本に住まうものの感覚を的確にあらわしているものだと私は思いますし、これを理解しなければあらゆる組織のありかたを考えるのは難しいと思います。
あくまでもこれは司馬の解釈であり、哲学や政治学、社会学、心理学などの研究を踏まえて解釈すべきなのでしょうが、少なくともこのような解釈をしなければ、この国の組織の問題の理解は進まないのではないかと思います。
ちなみに、社会保険労務士(社労士)という、弁護士や税理士よりずっと存在感が薄い『士業』が日本にはあります。(類似の制度は韓国にもあるようです)
社労士は労務管理も一応業務の範囲にあります。
10年ほど前、私はふと思い立って社労士の試験を受けて合格できました。
今振り返ると私の中には司馬が指摘したような感覚がなく、労働に関する諸法令・諸制度を事業主に守らせるなり、最善と思う就業規則を作るなりすれば良いという、どこか能天気な感覚がありました。
今、日本の労働政策は時代遅れになってはいないかと思っています。
業種によっては、人手不足どころか人材の流出が始まっています。
本来なら司馬が40年前に指摘していたことを、私だけでなく社労士なり労働政策の専門家が根本において理解しておくべきだったのではないかと思っています
それを理解しないまま、やれ助成金だ、やれ人事コンサルだ、というのは茶番でしかなく、問題の解決にはつながらないのではないかと思います。
私は『士業』の世界には戻ることはないと思っていますし、『釈迦に説法』かもしれませんが、『士業』関係者の皆さんにもせめて危機感だけでも伝わって欲しい、と願っています。

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