SNSと『人間の集団について』

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 -
【『群れること』のイメージとして、先日の福岡オクトーバーフェストの画像を貼ります】
自分が人生に迷ったときは、『人間の集団』というのを考える方が、自己啓発モノの本や、ポジティブさ・明るさを前面に押し出す文章を読むよりも合っているようです。
先日あるきっかけでTwitterから離れようと思ったとき、数年前にタイトルに惹かれて買い、英語の語学留学で1ヶ月ほど滞在したセブにまで持っていったほど、大げさにいえば自分の人生の指針となるであろう『人間の集団について』をまた読み返しました。
(この本のネタでブログのネタがしばらく持ちそうですが)

この本では、ベトナム戦争の終結前の現在のホーチミン市などを訪ねた司馬遼太郎がいくつか印象的なことを述べています。
『人間は孤立しては棲めない生物でもある。…都市生活はときに個々に孤立に似た状態を強いる。それに堪えられなくなったとき、たとえ短時間でも激しく群れたがる。』(75ページ)
この傾向は古今東西、洋の東西を問わず、ヒトがヒトの社会の中で生きていく以上必然的に起こす行動ではないかと思いました。
たとえばインターネットであれば2ちゃんねるやTwitterやInstagramなどの各SNSでも一定の共通点があるユーザーで固まることがあるのを考えると分かりやすいのではないでしょうか。
『激しく群れたがる』が故か、自分がよく覗くTwitterの特定の『クラスタ』では折に触れて馴れ合うことがありますが、Twitterから距離を置きはじめてから、そういう馴れ合いを冷ややかに見るようにはなりました。
あるアカウントからある事情があって絶縁されてから、仲間はずれにされた感覚が消えないためでしょう。

われわれは人間の集団を生物の次元で考えねばならない時代にきている。…いまとなっては、逆に人間の状況を破壊から救いだす唯一の拠点ともいえるかもしれない。』(76-77ページ)
『(当時の南ベトナムにおける)普通人にもし叫ぶ口があるとすれば、「民族も正義も消費文明も、そんなものはどうでもいい。せめて生物として生かしてくれ」ということであろう。』(84ページ)
政治のネタを追いかけている人を見ていた時、往々にして司馬が指摘した「生物の次元で考え」ることを忘れていないか、「せめて生物として生かしてくれ!」というホモ・サピエンスが持つ根源的な感覚を忘れていないか、(明け透けに言えば、他人を単なる数字としか見なくなってしまうのではないかということが)気になるようになりました。
この「生物として生かしてくれ!」という叫びは、水俣で起きたことだけでも思い起こせば我が事としてとらえることができるのではないでしょうか。
政治家にせよ、政治マニアにせよ、人事コンサルにせよ、たれもが、どこかで『人間の集団を生物の次元で考え』る必要かあるのではないでしょうか?
それを忘れた談義や馴れ合いは、『為にする』、つまりそれ自体が目的になってしまうのでは、と思いました。馴れ合いも必要ですが、そこに人々の生活や苦しみはありますか?
たまにはそういうことも考えてもらえるといいのではないでしょうか。

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