俳優の『顔』『見栄え』について:映画を見比べてみて






『韓国映画の画面の重厚さって,俳優の顔の多様さもかなりの部分を占めてるよね。まあ邦画と比べての金のかけ方とか撮影レベルの差も当然あるとはいえ』







『現実の世界にはいわゆる一般的基準において美男美女とされる顔ばかりじゃなくて様々な個性を持った顔があるわけで,その辺りちゃんと描かないと画面がいかにも作り物臭くなるんですよね』





以前から特にミニシアター系の映画に関心があった筆者は、当時ツイッターで読者登録(フォロー)させて頂いていた、地元在住の映画ファンの方の影響もあり、2015年頃から再び映画館で映画を観始めるようになった。
特に韓国の『硬派』映画を観るように心掛けており、機会があるたびに観るようにしている。
ミニシアターでよく上映される作品以外にも、シネコンで上映される『メジャー』作品も観るようになった。
ツイッターのアカウントを抹消して以降、映画鑑賞の頻度は高くなっている。
余った時間の活用でもあり、自己陶冶のためでもある。
韓国の『硬派』作品を見慣れたせいもあるのだろうが、米国の作品や日本の作品も併せて観ていくと、なんとなくだが、顔ぶれの違いに注目するようになった。
顔ぶれが『粒揃い』な作品が、特に日本の作品に目立つようにみえるのである。
国際的コンテストで賞を獲った『万引き家族』然り、『カメラを止めるな!』然り、直近では『ダイナー』然り。
顔立ちが整っていて、いわゆる『美男美女』が特に目立つように思えてきたのである。

『美男美女』への憧れは、老若男女問わずあるものだと思う。
だが、完全なフィクションの世界は別として、より現実的な世界観を持つ作品であれば、『美男美女』だけで世界が造られていると解釈するのは無理が生じるのではないか、と思うようになった。

筆者の極めて私的な印象でしかないが、かつての日本映画やテレビドラマなどは『俳優の顔の多様さ』があったような印象がある。
筆者が観た『八甲田山』『日本のいちばん長い日』『用心棒』に限らず、長年続いてきた『男はつらいよ』シリーズ(山田洋次の作品)や『水戸黄門』などの各種時代劇シリーズなどは、『美男美女』だけでなく、アクの強い『個性派俳優』の存在も、作品の成功に寄与していたはずだ。
特にファクション(事実に基づいたフィクション作品)であれば、所謂『二枚目』の面々だけでなく、『個性派俳優』の存在があってこそ、作品の世界観がより現実的なものとして観る人々を惹きつけるのではなかろうか。

『新聞記者』は例外として、日本の映画やドラマのヒット作は、登場人物たちが属する世界が不変のものだという前提があるように思える。
現実社会では、私たち日本人は『政』の話題に触れることでさえ『空気を乱す』『水を差す』ものとして、結果として『政』にコミットすることを控えがちである。
(某フィットネスクラブのキャッチコピーではないが)私達が何らかの形で『政』にコミットすることで、現実社会がほんの少しだけであっても変化をもたらすことがある。
実際に『政』に強くコミットすることで、体制の変化や社会の改善を続けている韓国と比べてみるのも、特に硬派映画を観るにあたって理解の一助になるであろう。
社会の変化のダイナミクスを描くためには、世界観の設定上、登場人物の多様さ、個性を際立たせなければ、観るものが所詮フィクションじゃないか、と感じるのではなかろうか。

『見栄えがいい』キャラクターや俳優陣を全面に押し出していくプロモーション(販売促進や映画館へのファンの誘引)は、ストーリー構成や物語の本質よりも『見栄えの良さ』や『SNS映え』を私達が求めがちなことの現れ(言い方を変えれば、現実逃避)なのかもしれない。
『見栄えの良さ』について、制作側だけに責めを問うのは酷なことであろう。

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