役得


今は専らネタ収集用として閲覧のみ行なっているツイッターだが、あるアカウントの管理人の投稿とそれに関連する内容が引っかかったので、参考意見として紹介しておきたい。







『日本人は平等というものが本気で嫌いなのだと思う。露骨な縁故主義が横行しても何も言わず、むしろ当然のものとして受容する。だからなのか権力側もそれを隠す気がない。教育機会の(不)均等にしても、過半数が現状を肯定しているという。現状追認や正常性バイアスだけでこれが説明できるだろうか。』





『この「役得(があって当然)」という考え方、これが日本社会を歪ませる大きな要因になっていると思う。それなりに抑制の効いていた人でさえ、この「役得」思想に囚われると、容易に腐敗してゆくのだ。「なったからには役得に与らないと(損)」となってしまう。』

この投稿を読み思い出したのは、かつて観た『戦場のメリークリスマス』である。
この映画では、軍隊における暴力の蔓延が描かれていた。
監督だった大島渚は、他の作品でも暴力についてテーマとすることが多かったようである。
軍隊自体が国家がもつ暴力性を現すものであるが、それ故に内部でも物理的・心理的な暴力が付きまとうものだと思っておくべきなのかもしれない。

さて、当邦。
21世紀に入りはや20年近く経とうとしているが、自衛隊や警察組織のみならず、労働の現場や学校やスポーツ界、芸能界などあらゆる分野で暴力が蔓延している。
例えば相撲部屋の事件や大手広告代理店の事件、某大手テレビ局員の性犯罪事件は、当邦の社会そのものが社会が孕む暴力性を今なお容認していることの現れとみることはできないか。

先に紹介した、アカウントの管理人の意見と合わせて考えてみると、当邦では大なり小なりある程度権力を持つ地位に就くと、その地位や権威に依存して不正を行い、暴力を行使できるという『役得』があるのではないか、と筆者は思うようになった。

#metoo ムーヴメントや、各分野でのセクシャルハラスメント・パワーハラスメントなどの告発は、地位や権威に基づく『役得』としての暴力の行使への有形無形の異議申し立てである、と考えることができるのではないか。
ソーシャルメディアが、『役得』としての暴力に対する反対意見の表明に大いに有用であると思っているが、一方で『役得』の強化・固定化につながる危険性も忘れてはいけない。

『役得』といえば、かつての中国の歴代王朝の地方行政について、司馬遼太郎が『長安から北京へ』などで強大な権限と腐敗について述べているので引用しておきたい
『…万余の地方官というのは地方における小皇帝であった。かれらの正規の俸給というのはうそのようにすくなく、そのために収奪したり、収賄したりすることがほとんど正規の業務のようなものであった。清らかにつとめているというような地方官は多くは文献のなかだけのもので、まれにそういう者がいても、そういう者でさえ「地方官を三年やれば子孫三代徒食できる」と--このことは明代だけでなく--いわれた。
農民は要するに二重にも三重にも搾られるだけのものであり、さらに農民を搾る階級として郷紳という存在もいる。農民というただ一階級を搾るための機構や機能として、これだけの重構造が上部に存在している。…』(32-34ページより)

当邦が腐敗や搾取とは全く無縁だとは言えないが、待遇がよくない場合、そして、権限がかなり強い場合、どのような国家体制であっても、このような腐敗や搾取は大なり小なり起こりうるもの、そして『役得』となりうるものである、と思うべきである。
小さなものであっても、国家レベルでなくても、腐敗や搾取が当事者にとってタチが悪いものだということは指摘しておきたい。

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