ツイッター観察記:『自己責任』というものについて



『なるほど。自己責任論の正体が分かった。
命令によって動けば発生しないが、自らの意志によって動けば発生するもの。それが連中の言う自己責任だ。
言い換えれば、権力に従う者には発生しないが、そうでない者には発生するもの。
つまるところ、自己責任論は、権力に従わない者への脅迫だ。』



『日本の自己責任論は、「共同体に迷惑をかけるな」が背景にあるから始末が悪い。個人より共同体を優先する者が多いから、倒産しかけた大企業を税金で支援することにを賛美したりする。(原文ママ)』




『「自己責任」も「死んだら負け」も、自分自身の覚悟や心構えとして本人が言うのはいいけど、他人が口にした途端、経済的・社会的に弱い立場の人や、意図せず失敗してしまった人や、病気や困難を抱えている人を突き放し、追い込み、切り捨てる言葉になるってことですよね。』


『ツイッター上の「自己責任論」論は、相当に進んできた。
要するに、これは共同体の権力に逆らうなら、生命という基本的な人権さえ諦めろというもの。服従するなら面倒を見る。と。
「服従しても失敗したらどうするんですか」「その責任は自分で負え。迷惑かけるな」というのは戦陣訓か新自由主義か。』





『だから、もう共同体主義ですらない。小さな政府ならぬ小さな利益共同体の命令に従わなければ自己責任、従っても権利の保障を求めるなら自己責任、近代以前の専制を「自己責任」といういかにも近代的個人主義を連想させる言葉で偽装したにすぎない。』

先般、自らの仕事のために赴いた数年間中東の地で不運にも己の意に反して武装集団に拘束・虐待されてきたあるジャーナリストが幸運にも帰還できたニュースを見た。

が、当邦の近年の『お約束』というか『様式美(というにはあまりにも醜いものだが)』というか、当の本人に非があるかのように、そして、国家体制や日本のムラ社会の構成員に『不快な思いをさせた』『迷惑をかけた』という理由をもって、本人に『自業自得』とか『自己責任』とかいう言葉を投げつけるのがお決まりの流れになっている。
それは、どうやら当邦のみに顕著な現象である、と言われているようである。

参考までに、ある記事を紹介しておきたい。
https://blogos.com/outline/273913/
『このような発想が日本人に定着したきっかけとして挙げられるのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」という本だ。この本自体は未読の人でも、「天は自ら助くるものを助く」というフレーズは聞いたことがあるのではないか。
いまは「自助論」というタイトルで複数の訳が出ているが、もともとは「西国立志編」というタイトルで明治4年に出版されてベストセラーになった。西洋の成功者の物語を描いた話だが、これは時の風潮に乗った。
やれば、できる。今でも当たり前のように語られるこのフレーズも原形を探ればこの辺りに行きつくだろう。
儒教的な倫理道徳に、西洋的な自助思想が乗れば「ちゃんとしてない人」への眼は厳しい。これは昔からの価値観としてあったはずだ。』

『日本の「向こう三軒両隣」というのは、助け合いの発想を示しているのではない。それは相互監視社会において「みんなと同じ」に振る舞うのが得、というだけだ。それが「安心」なのであり、決して「信頼」しあっているわけではないという。』

『「自己責任論」の否定は「努力の否定」になり、多くの人は受け入れないだろう。それは、「自己責任vs.助け合い」といういわば「モラル対決」に話を進めているからだと思う』

過去の類似の事態の当事者や災害の被災者、犯罪(とりわけ性犯罪)の被害者、社会福祉の庇護を受ける人びとに対する当邦の『普通の人びと』の視点は、特にソーシャルメディアを介して可視化できるのではないか。

『権力に従う者には発生しないが、そうでない者には発生するもの
『これは共同体の権力に逆らうなら、生命という基本的な人権さえ諦めろというもの。服従するなら面倒を見る。』
という『お上意識』のようなものや、儒教的道徳観とプロテスタント的倫理観、皆と同じに振る舞い無難に過ごしていくことを至上のものとする当邦の社会観、これらの合わせ技が、当邦の『自己責任論』というものなのだろう。

少なくとも、武家政治や儒教や『武士道』の成り立ちまで遡って解釈しなければ、外国の人びとには『自己責任論』というものは説明できないであろうし、数百年もの時間をかけるか、国家の破局的事態を経験しない限り改めることはできないのではないか、と思う。


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