imagine #国家が破産する日 #家族を想うとき 鑑賞記
'19年の年末から'20年の年始にかけて
『国家が破産する日』
『家族を想うとき』
『パラサイト』
の3作品を連続して鑑賞した。
今回は『国家が破産する日』と『家族を想うとき』 をまとめてみる。
1:
『国家が破産する日』 は韓国の国家経済の破綻の過程を描いたファクションである。
貿易や海外からの投融資の影響が強かった1990年代の韓国のI MF危機時の韓国銀行・あるノンバンク従業員のち投資家・ 町工場経営者の姿から当時起きていたこと、そして、 国家規模の経済危機が起きるとすれば何が起きるかを想像するのに 相応しい作品である。
国家破産という極めて異常かつ稀な事態。
誰もが『正常性バイアス』『確証バイアス』の罠で自分達は/ 今回は/我が国は大丈夫だという思い込みに囚われ、 袋小路に追い込まれていった。
この『バイアス』の類は、私たちも経験してきたはずだ。
例えば平成バブル、東日本大震災、 そして福島第一原発の多発メルトダウンという国家存亡の危機…
人によっては『ショックドクトリン』ともいうが、 国の諸制度を根本から変革する時に、 危機的事態を利用して改革を進めるということがある。
韓国の場合はIMF危機で労働市場改革が行われ、 日本の場合は平成バブルの終焉に連なる山一證券と北海道拓殖銀行 (拓銀)の倒産を象徴とする経済危機でも、当時の高校・ 大学卒業後の就職難が数年間続き、 その後労働市場改革が断続的に行われてきた。
その過程で何が国民にもたらされ、 後遺症はどのような形で現れているか、よくみておくとよい。
2:
『家族を想うとき』 は英国であったある宅配便ドライバーの死を素材として『 ギグエコノミー』社会で起きていることを、『請負』 ドライバーと彼の妻である出来高制の介護ヘルパー、 彼等の高校生の息子と中学生の娘の家族をモデルとして描いている 。
元々建設労働者だった彼(2児の父)が、 諸々の事情で建設の仕事を離れた後に選んだのは配送の仕事だった 。
そこは、労働市場改革などの影響で多数の『個人請負』 の配送員とひと握りの『正規雇用』 の管理者で構成される職場だった。
職場では業務時間中はトイレ休憩すらままならず、 週6日の勤務で長時間労働せざるを得ない状態であり、 仕事のために家庭を犠牲にせざるを得ない環境であった。
少しでも不平不満があれば管理者から代わりを探すよう言われ、 時には職場を追われる。
時に居眠り運転をしてしまう程になった父は、 怪我を押して仕事に出てしまうところで映画はブツリと終わった。
それは、観るものに『その後』を想像させることでこの『 ギグエコノミー』 の問題を他人事でなく我が事として考えさせようとしているのだろ うと思った。
3:
国家の経済危機で、 国家を立ち直らせるためにたれが切り捨てられるのか。
たれが利益を得るのか。
この2作品を続けて観て、
・目端が利く、抜け目のない、インサイダー情報(的なもの) をすぐに入手できる人間は(他人を蹴落としてでも)生き残れる。
・そうでない大多数の人びとは、断片的に流れ時には制御・ 検閲された情報に右往左往する。
・どの階層にいても、たとえ権力中枢にいたとしても、『 正常性バイアス』『確証バイアス』から抜け出すのは困難である。
・経済危機後は特に労働者階級や中小零細企業の経営者、 小規模自営業者には過酷な時期が来る。( インフレなど資金循環や流通網の麻痺による生活物資確保の問題、 医療支援の停滞、将来悲観に伴う自殺多発、飢餓、 そして人口急減、平均寿命の低年齢化…)
・たとえ危機が収束しても、労働市場が『資本の原理』・ 企業収益確保至上主義により労働者に極めて不利になり得る。( 所謂非正規雇用やギグエコノミー化、労働条件の過酷化…)
いずれにせよ、カネ・コネ・情報・ 権力を持つものに極めて有利な社会が現れるとみている。
私達はそれに抗うことはできるのか。
果たして、日本人はそれを唯々諾々と受け入れるのだろうか。( というか、受け入れるだろうと思っている)
経済危機を経て、多くの人々( 特に個人事業主や筆者を含む大多数の賃労働者) がその日の仕事に追われ、余暇を愉しむ金銭的・ 精神的余裕をなくす世界(それでごく一部の階級はより儲かる) を今私達は目の当たりにしているし、 実際体感しているはずである。
そんな社会でいいのか、 余裕のない生活の中で生涯の伴侶に余計な苦労をさせていいのか、 そんな社会を次の世代に渡して死んでいくのか、 そんな社会がまともなのか。
コメント
コメントを投稿