【映画鑑賞記】白い地獄・ #八甲田山

1:
2019年度で終了するイベント『午前十時の映画祭』。
'18年には『地獄の黙示録』や『用心棒』を観たが、'19年はいくつか見逃してしまったので、時間を割いて何か観てみようと決め、今回選んだ作品のひとつが『八甲田山』である。
あらすじについてはウィキペディアなどをあわせてご参照いただきたい。
参考:八甲田山(映画)- Wikipedia
八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia

筆者の趣味であるスクーバダイビングでは、先導役のダイバーはライセンス(免許)発行団体が主催する専門の講習を受ける必要がある。
また、高山地帯への登山にあたっては、例えばヒマラヤ山脈であれば『シェルパ』が先導役などの重要な役割を果たす。
(ヒマラヤ山脈については、韓国映画『ヒマラヤ』などで映画化されている)
アウトドアスポーツに限らず、自然環境の変化に影響されやすい活動は、その環境の変化を侮りベストコンディションを前提として物事を考えると、時として悲劇的結末を迎えることとなる。
本作はその一例である、1902年1〜2月の『八甲田雪中行軍遭難事件』を題材としたファクション(史実に基づいたフィクション)である。
1977年の制作であり、ヘリコプターの音が今と明らかに違うこと、2019年であれば人によってはVFXやドローンなど後年登場した撮影・映像制作技術も駆使することになるであろうことを思えば、時代の流れ(変化するもの、不変のもの)を感じることもできるであろう。

2:
本作は、現在の青森市と弘前市を出発した2つの連隊(青森市から:当時の歩兵第5連隊=神田中隊長:北大路欣也、弘前市から:当時の歩兵第31連隊=徳島中隊長:高倉健)が途中の八甲田山エリアでランデブーする想定で、1902年1月下旬に雪中行軍訓練を行うことが決まるというところから始まる。
その始まり方も、参謀長の『提案』という形である。
当時の軍務に疎い筆者の想像でしかないが、台詞などからすると、軍の予算のやり繰りや査定の関係もあって、ある程度連隊の裁量で動かせるようにしたのであろう。
ただ、この『提案』というスタイルは、ともすれば幹部の責任回避に利用されるリスクがある。

事前調査のシーン以降、村長(むらおさ)など地元の方々が登場するが、その中で冬の八甲田山の恐ろしさを『白い地獄』と表現している。
2つの連隊の行軍隊の生死については、行軍隊の編成、装備、冬季登山や豪雪のシーズンの経験の有無も影響しているが、最終的に分けたのは、地元の方々の先導を利用したか否かである。
この『白い地獄』は、高倉健の台詞にもあるが『数十年、百年経っても人を寄せ付けない』と表現できる。
実際、2010年代に入っても八甲田山系の酸ヶ湯(現・青森市)は積雪が5mに達するシーズンもあり、今尚冬季は人々のアクセスを拒む。
酸ヶ湯 - Wikipedia

3:
弘前市発の第31連隊は、途中経由地〜十和田湖〜三本木(現在の十和田市)〜八甲田山までの間で先導役を地元住民から選抜している。
また、当時の技術で可能な限り最大限の防寒対策を施し、訓練中は隊列を崩さず、体力を温存できるよう行程を組んでいる。
また、人員も27名に絞って、戦時の迂回路としての山岳ルートの調査(リサーチ)を目的を絞り込んだメンバー構成としている。

かたや青森市発の第5連隊。
人員がメインの190名程と別に大隊長など随行の20名程の計210名の『大所帯』となり、また、行軍訓練の過程で大隊長・中隊長の間で指揮命令系統が乱れることとなった。
一度トライアル的登山訓練を行なっていたが、その時天候に恵まれていたことや東北地方の太平洋側(岩手県・宮城県)出身者が多かったこともあり、『雪の恐ろしさ』を知らない人が多かったようである。
装備も第31連隊と比べると見劣りする点がある。
また、行軍開始後、村から先導役の件で問い合わせがあったにもかかわらず大隊長が先導役の選抜を拒否してしまった。
そのシーンが、大きな悲劇の『ポイントオブノーリターン』だった。
『餅は餅屋』というし、かつて吉田兼好も『少しの事にも先達(先導役・ナビゲーター・シェルパ)はあらまほしき事なり』と先導役の重要性について『徒然草』で述べているが、大隊長が先達を拒絶してしまったのは大きな誤りであったと解するしかない。
第5連隊が村を出発する時、村長が『命知らず』『大馬鹿者』と零していたが、結果として村長の警告は的中したのである。

4:
高倉健と北大路欣也、二人の名優を中心に、エンドロールなどを見ると皆さんもどこかで見覚えのあるメンバーが出演していることが分かるはずである。
筆者は高倉・北大路の二人に着目し鑑賞した。
とりわけ、劇中の『間』の北大路の表情を観ると、どこで観ても北大路は北大路だと思わずにいられないであろう。
近年では『華麗なる一族』やソフトバンクモバイルのコマーシャル映像で彼の顔を観た方が多いと思うが、1970年代の頃からあの『間』の彼の表情は観る人にとって印象的だったのだろう。

摂氏マイナス50度であったともいわれる『白い地獄』の中で、第5連隊の行軍隊は、ある人は、2019年風にいえば『インスタ映え』する、とても心地の良い夏の八甲田の風景を思い出し、またある人は、錯乱状態になり防寒服を脱ぎ捨て氷の世界にダイブし凍死し、そのまたある人は豪雪に立ったまま埋もれていった。
ちなみに、この1901-02冬季シーズンに、旭川市で摂氏マイナス41度を観測している。

リンゴ農園やねぷた祭り、稲作などの劇中の津軽平野の四季の光景(これも今でこそ『インスタ映え』する光景)が、登場人物の原風景であり、日本海側と太平洋側の気候が衝突する『白い地獄』の苛烈さを際立たせる。

5:
本作は、
・急変する自然環境や、現地の人々の生活の知恵・過去の教訓を舐めてかかることが如何に無謀で愚かなことか
・指揮命令系統が混乱する結果組織が崩壊していく過程を描いていること
を、第二次大戦の生存者がまだまだ多かった1970年代の『空気』をあわせ持って私たちに伝えてくる。
私たちは、当邦の組織の弱点・人間(特に組織のトップの立場の人間)の時に見せる傲慢さをこの『八甲田山の白い地獄』から突きつけられている。
本作の特に第5連隊側にいえることだが、第5連隊の幹部は果たして『将』として相応しいと言えるか甚だ疑わしいと思える。(そういう設定ではあるが)

余談であるが、故・司馬遼太郎が生前インタビューで将軍・『ジェネラル』について『諸価値の総合者』と関西弁混じりで語り、日本には『肩書だけのジェネラルはいたが、中身がなかったのではないか』という趣旨の発言をしていた。

多くの犠牲者を出した第5連隊に絞って話すが、八甲田の自然条件(冬季の荒れやすい気候・豪雪地帯…)・構成員の冬季登山や豪雪地帯での生活の経験・必要な機材・予算・無理のないスケジュール…などを考慮し、総合的に判断できる人が師団の参謀なり連隊の幹部にいれば、事態は変わっていたのかもしれない。歴史にifはないと分かってはいるが。

本作『八甲田山』でも、司馬の『ジェネラル』のインタビューを思い出すこととなったのである。


『ジェネラル』のことは、以前別に観た米国の社会派サスペンス映画『ペンタゴン・ペーパーズ』の時にも触れた

http://onthewayinkyushu.blogspot.com/2018/04/pentagonpapers.html

ので、機会があれば両作品におけるリーダー・幹部の立ち居振る舞いを見比べてみるのも一興である。


また、先導役との別れのシーンは、演出上『綺麗な』描き方になっているが、後年の研究などにより、先導役の人々も多大な犠牲を払っていたことが判明している。
そのことも思い出していただきたい。

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