光州紀行 20190518 その2 #光州事件 #光州民主化運動

【そのhttp://onthewayinkyushu.blogspot.com/2019/05/20190518-1.html からの続き】

4:518、光州の路上で

1430分頃、518民主墓地前のバス停より光州市内に戻った。所定では約1時間かかるところだが、錦南路(クムナムノ)に差し掛かったところでバスが渋滞にハマり動かなくなった。

寺の前で運転士の方に「ここで降ります」と簡単な韓国語でGoogleの翻訳アプリを使って伝え、錦南路に向かった。

錦南路から旧全羅南道(チョルラナムド)庁舎(日本統治時代の建築)まではデモ(というよりも集会)の為歩行者天国として封鎖されていた。

その集会の参加者が旗やバナーを掲げ、大勢旧全羅道庁舎前のロータリーに向かっていたのである。

錦南路は1980年当時は群衆と軍隊の衝突の現場であり、大勢の人々が亡くなった地である。


集会は『汎国民大会』と呼称されていた。

筆者は初めて映像でなくナマで韓国のデモや政治集会的なものを見た。

参加者の皆さまには失礼かもしれないが、一種の『野外フェス』的な感覚に近いものを感じたのである。

日本のデモは、会社の労働組合との付き合いや動員をかけられて折角の休みに不承不承出かけるものだと思われがちになっているのとは明らかに雰囲気が違う。

ステージの作りや音響機器類や大型ディスプレイがあるところが、まさに野外フェス的である。

しかしながら、私達が見かけたり参加したりするフェスと異なるのは、バナーや参加団体の持参した旗(それも政治的なものや光州事件にまつわる内容を書いたもの)が多数掲げられている点と、ニュース映像で韓国のデモを見たことがある方だと分かるだろうが、シュプレヒコールを上げる点である。

メーデーのみならず、特に政治的なデモや集会が野外フェスやストリートライブみたいにより気軽に参加できるものになれば、民主制が人びとの生活に身近なものになるのではなかろうか。

政治運動に限らず、凡ゆる日本の団体の運営がどうしても『身内ネタ』『楽屋ネタ』『内輪ノリ』的になりがちな傾向があることを考えると、そのまま韓国のノリを取り入れるのは所謂『国民性』や歴史の相違を考えると難しいであろうが、何かしらの参考になるのではないか。


ちなみに、この日保守系野党『自由韓国党(李明博・朴槿恵政権期の与党)』党首がこの日光州に向かっていたが、目前で一部の市民により一時阻止されたというニュースが流れていた。

参考:『ゆーすけ』さんの投稿

https://twitter.com/yoox5135/status/1129555209158397953?s=21

自由韓国党のルーツがかつての第五共和国体制にあることから、518民主化運動に関わりがある人々には蛇蝎の如く嫌っている人もいるようである。

今後も、水と油のように決して交わることがないのだろうか。


『汎国民大会』会場の雑踏をすり抜け、かつて日本統治時代(植民地支配時代)に建てられた旧全羅道庁舎に向かった。

当時学生や市民のデモ参加者などで溢れていた旧道庁舎前のロータリーは、一種の野外フェスのブースのようになっていた。

セウォル号事件やろうそくデモをイメージさせる展示物や各種グッズ類の販売コーナーなどがあった。

まさに街中がイベント会場として人々に思い思いの時間を過ごすことができるようになっていた。

たまたまセウォル号関係のコーナーを見ていたところ、そのコーナーのおばちゃんに声を掛けられておばちゃんのスマホで写真を撮り、小さな黄色いリボン型のアクセサリーを貰った。


旧道庁内部は、518民主化運動とその前後の時代をイメージした、より視覚的な展示と追慕館より詳しい当時の記録・証言を韓国語と英語で記した壁面が配置されている資料館として内部が大幅に改装されている。

1時間程かけて廻ると良さそうである。

当時、旧道庁内に市民の中で亡くなった方々の亡骸が一時的に収容されていたことを説明する表示があった。

2019年の旧道庁舎は、見学者や大会参加者などが思い思いに土曜日のひと時を過ごしていたが、当時の現場を知っている方には、あの日の記憶が生々しく蘇る場所なのかもしれない。

筆者は『血生臭い』とか『血の匂い』とか『死臭』というものを言葉でしか知らないが、当時の光州を知っている方々でなければ分からない、独特な感覚があるのだろう。

もしかしたら、知らなくて済むならばそれがいいものなのかもしれない。

想像力を働かせるしか筆者にはできない。


日本の社会で暮らす日本人の場合、どうも権力というものを『肉親』のようにとらえ、無謬(間違えることはない)であると思いがちであり、元を辿れば人災であるといえる戦争や核災害を天災ととらえて情緒的に解釈し、根本から考えようとしない癖があるように思える。

旧くは『三韓』の時代から(高麗時代や李朝時代などを別として)今の『北韓(北朝鮮)』との分断に至る、世界史の中で勢力争いの衝突の最前線となり続けている韓国の人々は、時として権力の元来有する暴力性と真っ向勝負をかけなければ生き延びることはできないこと、現代史において権力がその有する暴力装置で同胞を多数殺したという汚点を直視し、歴史から学び、同胞の大きな犠牲を経て得た民主制を活かして国を不完全であっても健全に回していこうとする『凄み』を私達に感じさせる。


5:南海高速道路の夜

夕方、錦南路のバス停から総合バスターミナルに移動後、軽食と高速バスの乗車券を購入した。

釜山・光州共に市内バスは時刻表がないので、日本語サイトで運行間隔や系統を調べておくとよい。

1年半の勉強のおかげでハングルが読めるようになってきたので、目的地の総合バスターミナル方面行きの系統をチェックし、バスを待ったが、先に来た便が満車状態になったので次の便の急行系統にした。

TマネーカードをカードリーダーにタッチしたがパスポートのICチップに反応したのか上手く読み取りできなかったので、乗客の方が運転士の方に声かけしてくださったこともあり、停車中に再度タッチして精算できた。


バス車内は前払い方式であり、目的地到着前に降車ボタンを押すところまでは日本とほぼ同じであるが、走行中でも停車前に降り口に向かうのが当たり前のようである。

日本の場合、日本の道交法の関係もあり走行中は移動を控えるよう促されることが多い。

韓国からの観光客が日本のバス車内で平気で動き回るのは、韓国式の乗り方に馴染んでいるからであろう。

もしかすると、日本の『乗車マナー』というものが特殊なのかもしれない。


軽食を確保し、18時の南海高速道路経由の高速バスで釜山西部バスターミナルに向かった。

途中、泗川(サチョン)のサービスエリアで休憩を入れていた。

高速道路を走る車は、現代自動車(ヒュンダイ)や起亜自動車(キア)の車が殆どだった。

右側走行・左ハンドルの韓国車が、日本や英国のような左側走行・右ハンドルという特別仕様を施すことなくアングロアメリカ圏などに輸出できることは、貿易上有利な条件ではなかろうか、と思った。

途中の各都市の集合住宅やショッピングモールの夜景は、かつて日本で一世を風靡し、アニメーション業界など各方面に影響を及ぼした漫画・アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』に出てきた『第3新東京市』のようであった。

それも、筆者が夜時々走る九大学研都市界隈(福岡市西区)よりもずっと『エヴァ』の世界に近いイメージだった。


6:釜山港の朝

釜山駅から釜山港まで歩くのがしんどかったので、郊外の金海(キメ)市発・西面ロッテホテル前経由・釜山港国際ターミナル前行きの『1004系統』のバスを使った。

10分おきに運行する急行系統のようで、途中いくつかの停留所を通過する。

日曜日の朝で道路が空いていたこともあり、約15分程でバスは国際ターミナル前の路上のバス停に到着した。

市内バスの利用にはTマネーカードを持っておけばお得だが、光州の項でも書いたようにハングルが読めるかどうか、認知度が高いかどうか、で使うかどうかを決めると良さそうである。


国際ターミナルは、朝から対馬や博多港に向かう客で賑わっていた。

意外だったのは、対馬(韓国語では『テマド』と発音する)行きの便数がかなり多いことであった。

『コビー・ニナ(未来高速)』(博多港行きは20195月時点では運休していた)や『ビートル』、『オーシャンフラワー』『ブルー対馬』などがある。

対馬にツアーや用務で出かける人が多いようであり、団体のパスポートなどをまとめている人もいた。

数年前に対馬を訪れる韓国からの観光客が多いと聞いてはいたが、距離の近さ(福岡市や対馬が属する長崎県よりも釜山が近いこと)、過去の交流の歴史(司馬遼太郎の『街道をゆく:壱岐・対馬の道』など参照のこと)を考えると、この対馬航路の頻度や利用者の数の多さは必然なのかもしれない。


ターミナル内の大型ディスプレイでは、対馬観光の広告が放映されていた。

韓国語のハッシュタグを多用した広告で、インスタグラムなどのソーシャルメディア隆盛の時代を反映した広告であった。


7:あとがき

当邦は2019年の5月に明仁親王が『天皇』の地位を降り、代わりに徳仁親王が『天皇』となった。

その記念というべきか、晩春から初夏に大型連休が組まれ、『改元』特需のようなものが一部にはあったようである。

一方、日本の外では貿易摩擦問題が進行し、紛争が未だに続く地域・新たに勃発している地域・体制が崩壊しつつある地域もある。

『改元』という現象を見るうちに、当邦は民主制国家として第二次大戦後立ち直ってきたが、その実はまだ皇帝が君臨する帝国だったんじゃないのか、『日本スゴイ』ブームに飲まれ、私達が日本列島という『殻』に閉じ籠ろうとしてはいないか、という思いを強くしていた。


その最中、書き入れ時の週末に入った休日を敢えて海外で、しかも518民主化運動の『聖地』で過ごすことは、帝国制に先祖返りしかねない空気にある日本についてクールな目とホットなメンタルで観察しようと努めるために良いキッカケになったのかもしれない。


そうこう考えを巡らせるうちに、ビートルは博多湾に入っていった。


光州市内は、できれば1日使って周遊することが望ましい。

いつの日か再び光州に行ってみたい。

コメント

このブログの人気の投稿

#福岡市長選 観察記 その2

春の九州路をゆく 長崎・日田・柳川

水俣の青い空の真下で:暴力について