『いい時代』とは


先日、コンビニで読んでみたある薄い本(他のタウン情報誌と比べて、という意味で)に掲載されていた、山崎拓のインタビューに思わず目を留めた。
筆者は雑誌の類は買うことが少ないが、ネタの収集のために買った。
「政治に無関心でいられるほど、今の日本は平和で豊か」
「(デモについて)場合によっては集まらないかもしれない。もっと楽しいことがいっぱいあるからね。ある意味いい時代。」(『Open』vol.28 9ページより)
という彼の言葉。
筆者とは思想信条はおそらく異なるだろうし、もし所属する党派があれば彼とは異なる党派になるであろうが、政治の世界に身を置いていた人間の言葉だけに、妙な迫力というか説得力があった。
(余談だが、彼は『表舞台』での活動の終盤に自らの醜聞で晩節を汚してしまい、結果として国会議員の職を失った。近年は福岡市内(主に南区近辺)でソフトボール関係の活動にも顔を出しているようであり、タクシーに乗る時はいわゆる『流し』の車に乗ることもあるようである。)

たしかに当邦の皆さんは、政治に関心を持てと言われてもなかなか縁遠いものだと思いがちだろう。筆者も例外ではない。

筆者はここ数年、主にツイッターやインスタグラムを通じて、当邦の事情を相対化しようと努めるべく--というか単に面白そうだと思っただけだが--韓国の政治や社会の出来事、そしてそれらに対する韓国のユーザーの皆さんの反応をチェックしようとしている。
そもそものきっかけは、崔順実ゲート事件の顛末や'16年4月のセウォル号事件、ソウル市内のロウソクデモからの文在寅政権誕生に至る流れであるが、筆者にとって隣国であることをリアルで感じる韓国について、日本語のフィルターを通さない形で知ってみようと思ったのである
韓国に住んだこともなく、韓国の友人がいるわけではない筆者であるが、韓国が今のところ徴兵制があるように『臨戦態勢』にあるがゆえなのかもしれないし、李氏朝鮮時代や日本統治時代(彼の国では『日帝』と呼ぶ)、第二次大戦後の国家体制の変遷の過程で生じた多くの犠牲の上に成り立っている現行の政治制度が、彼の国の方々には政治というものは日本人以上に身近なものなのかもしれない。

国の事情が異なるので一緒くたにするのはよくないと思うし、筆者やツイッターの政治関係の人気ユーザーが『日本人はもっと政治に関心を持つべきだ』と主張したところで無理強いするわけにはいかない、と思っている。
逆に、無関心なくらいで政治というものが人々の意識の多くを占めない方が、時として健全なのかもしれない。

私たち日本人が政治について関心が薄いと思われている事情について、『いい時代』というものについて、示唆的なことを過去に司馬遼太郎が述べているので、いささか長いが紹介しておく。

『日本は弥生式農耕が入ってきて以来、…昭和三十年代の終りごろになってやっと飯が食える時代になった。日本人の最初の歴史的経験でありわその驚嘆すべき時代に成人して飢餓への恐怖をお伽話としか思えない世代がやっと育ったのである。いま国家的緊張はなく、社会が要求する倫理は厳格さを欠き、…神からの緊張もない。こういう泰平の民が、二千年目にやっとできあがったのである。目に力をうしなうというのはそういうことであり、人類が崇高な理想としている泰平というのはそういうものであり、泰平のありがたさとは、いわばそういう若者を社会がもつということかとも思われる。』(『人間の集団について』96-97ページ)
王朝が衰弱するのは干魃などの天災による流民の大量発生ということによる場合が多く、要するに歴史時代の中国の為政者は、人民が飢えることをもっともおそれねばならず、それをおそれぬ政権はやがてほろびた。この点、日本はモンスーン地帯にあって水が豊富なために流民が十万、百万と彷徨するような現象が成立しにくく、歴史上のどの政権も人民の飢えということを自己の政権の盛衰の問題として戦略的に考えるということはなかった。』
『将軍という為政者は鎌倉、室町、江戸を通じ、大名対策をおこなう存在ではあったが、人民をなんとか幸福にさせたいなどという思想は、本来、絶無にちかいものであった。中国では紀元前から曲りなりにも政治とは人民のためのものであり、人民を離れて政治思想はないという伝統が継続してきたが、日本の歴代の権力にはそういうものがほとんどない、と言いきってしまっても本質を外れることはない。』(『長安から北京へ』90-91ページ)
流民が政治をゆるがすほどの量では出ないという日本の農業事情の相違によるわけで、それがために日本の歴史的権力は人民を怖れるという要素が薄く、逆にいえば人民の側においても政治というものが中国ほどには切実でなかったということがいえる。さらにいえば、そういうようにして歴史的に出来あがっている日本人の政治感覚では、中国の政治における食糧問題というものの困難といった切迫性としてとらえにくいのではないか。中国がわからない、という基本のなかに、そのことも入っているのではないかと思える。』(『長安から北京へ』92ページ)

政治が今以上に人々の生死にダイレクトに影響する状況であれば、必然的に政治への関心は高まるのであろう。
人々が飢えの恐怖から解放され、生活に余裕が出てきて、自分たちの幸福を追求できる社会になることがよいと筆者は思う。
が、そのような社会を確立しても、持続するには日本国憲法第12条 http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html#s3
でも謳われている『不断の努力』が必要なのである。
「いい時代」という言葉に込められた意味が、私たち一人ひとりにとっていい時代であればいいのだが、『不断の努力』を怠れば、あっという間に「為政者にとっていい時代(国民にとっていいとは限らない時代)」に変質してしまいかねない。

絶対的な崇拝の対象になる政治家を持つのが人類の幸福であるのかそれとも政治家たちを自分たちの脚下に見おろして罵倒する自由をもつのが人類の幸福であるのか、このことは人類にとって永遠に解決できない課題であるに相違なく、ひるがえって私の好みをいえば、むろん後者である。
ただ、ついでながら、生きた人間を同時代人が過度に崇拝するというのは、われわれ人類は近代というもののおかげでやっと克服できた。日本人も、生きた人間を過度に崇拝することによる惨禍をいやになるほど体験し、やっと常人ばかりがいる社会をもつことができた。…』(『長安から北京へ』325ページ)
『いい時代』であり続けるためには、私たちは政治には日頃は無関心でもいいが、時々政治を監視しておかないと権力者は堕落し、あっという間に『いい時代』が終わってしまうであろう。

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