『置かれた場所で花が咲く』ために



0:
『関ヶ原』『城塞』『坂の上の雲』のような歴史小説や、(JRグループをテーマとした)『軌道』『昭和解体』などのノンフィクションや『ハゲタカ(原作:真山仁)』のような経済ものなど『硬派』な話が好きな筆者が苦手な分野がある。
いわゆる『自己啓発』ものである。
かつて職場の同僚などに薦められて読んでみようとしたことがあったが、とうとう食指が動くことはなかった。
他にも所謂『自己啓発』の類の言葉をもらったこともあったが、それは単なる気休めであり、それ以上でもそれ以下でもないと思っている。

また、以前交際相手から自己啓発セミナーのようなものも勧められたが、やはり気が乗らなかった。
この『セミナー』はおそらくマルチ商法の入り口的なものだったんだろう。
自己啓発書やセミナーがマルチ商法への勧誘に利用されることもよくあると聞いていたこともあり、結局その後セミナーを勧誘した交際相手とは自然消滅した。)

それは今考えると一種の『気味の悪さ』『薄っぺらさ』『虚構』というものに違和感を感じていたからだと思う。

労働紛争の経験や東日本大震災/福島第一原発事故を目の当たりにしたことで、
『何やっても人間のやることには限界があるんだ』
ヒトが造るものは欠陥があるからそれを前提に物事を考えるべき』
『お前はそんなこと(綺麗事を)言ってるが俺らは霞食って生きていけと言ってんのか』というリアリズム(のようなもの)が身につき始めていたからだろう。

1:
『置かれた場所で咲きなさい』
という自己啓発本がロングセラーとなっているようである。

岡山の私学の理事長の著書らしいことまでは分かる。
相当な苦労人なのだろう。
そして、性善説的な価値観をお持ちなのだろう。

著者の方には大変申し訳ないが、このテの『自己啓発』というものが、筆者にとっては現実社会の矛盾や差別、暴力や搾取、そして公害・薬害・核災害などの人災・国家的犯罪など種々の人類社会の抱える問題の実相から人々の目を逸らし、根本的な解決へのスタートラインに立つことの妨げになることが往々にしてあるんじゃないかと常々思っていたのである。

花が『置かれた場所で咲く』ために必要なのは何か。
特に園芸や農業に関わる『プロ』の方々や趣味にしている方々がノウハウは詳しいであろうから、筆者のような部外者よりも『プロ』の方々のお話を伺うのが賢明である。
何もせずにただ種を撒けば勝手に育つというのは自然界だとよくあることだが、極端な話、ゴビ砂漠やサハラ砂漠やモニュメントバレーで貴方の好きな花を咲かせることができるのか、食べたい作物を栽培できるのか。

『置かれた場所で咲きなさい』というメッセージを正しく理解するためには、環境を整える必要があるということを想像する必要がありそうだ。
人に例えれば、生活環境や教育環境、労働環境、コミュニティなどでの支援、社会保障制度の維持管理、個々人の人格を尊重する社会…

恋愛や結婚に関しても、成り行きや直感が運命を左右することはあるが、それはあくまでも当事者同士の問題であり、当事者が住まう社会の矛盾や政治・経済の問題とは決して無縁ではないことを忘れがちな人は案外多いのではないか。
例えばジェンダー観であったり、男女間の賃金格差や出産・育児に関する環境整備であったり、近年であれば『非モテ』、そして特に単身者のライフプランニングや租税負担など…

身近なところに政治・経済・社会の問題の入り口はあるのだ。
が、特に政治のことについて語り合うことや己の主張を述べることを『ムラの秩序を乱す』として時に毛嫌いしがちな本邦では、そういう視点を持ちにくいのだろうと思わされる。
ソーシャルメディア、特に日本語圏のツイッターユーザーの一部はそういう意識を持っているが、日本人や日本語話者からみるとそれは少数派なのかもしれない。

2:
つくづく、本邦は『言霊の国』だな、と筆者は思うのである。

先日ネットサーフィンをしていて見つけた、あるツイッターユーザーの投稿を紹介しておく。
『日本は、専門家と呼ばれる人たちにすら科学的方法が通用しない、言霊の国なのだ。





人々にとって都合の悪いことや都合の悪い言葉は、口にしなければ無かったことになる。
そして、無かったことにすれば物事が丸く収まりムラの平和は保たれる。

私達が住まう国はそういう国なのである。

今般の2019新型コロナウイルス(SARS-Cov-2)のパンデミックと感染症(COVID19)に対する政治や経済のお偉方の動向や『専門家』の発言、そしてメディアの流すニュースなどをみて、言霊の縛りから逃れることができないのが本邦、そして日本語の宿命でないかと思っている。

このパンデミック、そして世界恐慌は、アウトブレイクが発生しなりふり構わずウイルスの拡散を阻止しようとする国々の指導者たちの有り様と、本邦の指導者たちの落差を非情にも白日の元に晒した格好である。
本邦は、水俣などの公害やHIVなどの薬害のみならず、あの福島の核災害でさえ言霊で乗り切ろうとしてきた国である。

湖北省やイタリアやニューヨークなど世界各所で今回のパンデミックがもたらしている悲劇の前では、自己啓発界のインフルエンサーたちの紡ぐ言葉は、SARS-Cov-2の変異や圧倒的な感染力、そして感染者の悲劇的な死、そして世界中の多くの人々が恐慌状態に陥っている残酷な現実の前に無力である。
映画版『アキラ』をご覧になった方だとピンと来るだろうが、あるカルト教祖が橋の崩落に巻き込まれながらも祈祷を続ける場面がある。
自己啓発本的『言霊』にすがる姿は、筆者からみれば『アキラ』のカルト教祖の最期の姿とダブってみえるのである。

3:
本稿を書き殴ろうとしたきっかけは、
糸井重里の
『責めるな。じぶんのことをしろ。』
に対する、
小田島隆の
『そして、置かれた場所で野垂れ死ね、と。』
という返答を見たことである。



本邦の多くの人々は、1980年代を生きてきて、本邦を明るく照らし、時に時代の暗黒面から目を背けることに貢献してきた糸井重里に共鳴するだろう。

が、パンデミックの圧倒的な現実(今後起こりうるであろう世界恐慌、そしてCOVID19による断末魔の苦しみ、経済破綻により人々が嫌でも目の当たりにするであろう地獄)を想像すると、糸井重里よりも小田島隆の強烈なカウンターパンチの方がより現実味を持つのではないか。

本邦の人々は、そろそろ『終わりなき日常』の終わりが近いことに気付くだろう。

綺麗事で、耳触りの良い軽い言葉で、覆い隠し目を逸らしてきた格差・階級社会や、本邦の政治経済システムの欠陥、そして、本邦の統治機構の元来の性格として『人民を守るのではなく、まず組織を、統治機構を守る』ということに気付く人が増えれば、IMF危機後の韓国のように『化ける』可能性はある。
が、『終わりなき日常』を持続させることを選択すれば、それは『日本沈没』の始まりだろう。
それくらいの危機感を権力者層に持たせること、かつての韓国の民主化運動のように時には権力者層を叩きのめし引き摺り下ろすことが私達に必要ではないか。
国民が飢餓状態に陥れば、そうなるかもしれないが、そうなる前に打つ手はあるはずだ。

自分の家族がいないとしても、知っている人が断末魔の苦しみの末に死んでいくのを見たいとは思わないだろう。
そのために出来ることをしよう。

ひとりじゃない、生き延びよう、って声を掛け合いたい。

コメント

このブログの人気の投稿

#福岡市長選 観察記 その2

春の九州路をゆく 長崎・日田・柳川

水俣の青い空の真下で:暴力について