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都市のつかいすて

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Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 22, 2016 at 10:10午後 PST 【大牟田市内のアーケードの商店街跡の空き地。2016年12月撮影】 毎年の年末年始休暇や夏季休暇には、故郷に帰省する人が多くなる。 故郷がない、故郷に帰れない、帰りづらいという人もいるが。 大都市居住者が故郷に帰省すると、故郷の変化(とりわけ、 衰退期にある地域)に愕然とすることがあるようだ。 衰退期の地域は、商店街が歯抜けになったり、消滅したり、 若い世代よりも高齢世代の姿が目立ったり、 郊外にありがちなショッピングモールすらなくなっていたりする。 福岡県の場合、福岡都市圏と特に筑豊・筑後地方の旧産炭地の『 差』に戦慄を覚えることがある。 それでも、 まだ人々の住まう光景があるだけマシなのかもしれない。 人々の生活があればまだしも、街自体『使いすて』 になることもある。 司馬遼太郎『アメリカ素描』より。 『アメリカにきておどろいたことのひとつは、 機能を失った都市を、平然と廃品同然にしていることだった。 フィラデルフィア市を見てそう思った。 日本でいえば、大阪を廃品にするようなものである。』( 文庫版247ページ) フィラデルフィアといえば、 MLBファンならばフィリーズを思い出すだろう。 ある人は映画『ロッキー』とシルベスター・ スタローンを思い出すだろう。 筆者の場合は、20年以上前に初めて聴いた洋楽の作品のひとつ、 『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』(米国では『ボス』 と呼ばれることもある音楽家、ブルース・ スプリングスティーンの代表作のひとつ)を思い出すのである。 この『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』 の動画を観ていただければ、『廃品同然』 の街のイメージをある程度想像できるのではないか。 『(都市の使いすてというのが、あるのか)』( 文庫版248ページ) 『 いわば豪儀なことができるほど国土がひろいということもあるだろ う。… 資本というものの性格のきつさが、 日本とくらべものにならないということもある。 この社会では資本はその論理でのみ考え、うごき、 他の感情をもたない。労働者も労働を商品としてのみ考え、 その論理で動...

『虔十公園林』から考えたこと

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【福岡市南区の新興住宅地をゆく西鉄バス車中より。2017年12月24日撮影 ※インスタグラムの『ストーリー』より】 宮沢賢治の作品といえば、『 雨ニモマケズ』や『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などのメジャーな作品を思い浮かべ る方が多いと思う。 ‘17年12月に参加した、 福岡市南区のある教会のクリスマス礼拝で、 宮沢賢治の作品のひとつ『 虔十公園林 (けんじゅうこうえんりん) 』という童話が朗読された。 これは障碍者に関する宮沢賢治の見解のあらわれと評価することが できるが、 一面では近代社会の都市化の過程での人々の原点というかルー ツを維持し続けること(要するに、 第二次大戦後の日本のニュータウン開発) について予見した作品ではないか、と思った。 教会がある福岡市南区は、元々農村地帯や林野が広がっていたが、第二次大戦後に都市化が進んだ。 19世紀以降整備された、 今のJR鹿児島線や西鉄天神大牟田線の鉄道路線からは元々外れて いる。 鉄道路線は都市間をつなぐインターシティの交通機関であるが、 今の南区は油山や背振山地があり、 その先の佐賀平野に出るには長いトンネルを掘るなり山越えの路線 を敷設するしかなかったのである。 (21世紀の今、背振山地には三瀬トンネル、 東脊振トンネルや新幹線の筑紫トンネルがあるが) 鉄道路線ができたのは、 21世紀に入った2005年のことである。地下鉄七隈線である。 ちなみに南区は通っていないし、 西区の橋本止まりで今のところ姪浜や糸島方面には延伸される予定 はないようである。 スプロール現象やドーナツ化によって福岡市も郊外に次々と公営団 地(堤団地や四箇田団地や老司団地など) やその他にも小規模な宅地が虫喰いのようにできてきた。 そして林や農地は次第に消えていき、一方でロードサイド店舗や国道のバイパス、福岡都市高速ができ、昔からの道は車があふれ渋滞が慢性化していった。 開発の過程で地権者とのいざこざや、 小さな森などの子供の遊び場の問題もあったのだろう。 (ちなみに現代日本のニュータウン開発については、高畑勲が『 平成狸合戦ぽんぽこ』として映画化している) 宮沢はいずれこの『虔十公園林』(世に出たのは第二次大戦前だが)のような問題が日本各地で勃発するのではないか、 と思って...

クリスマス礼拝2017inプロテスタント教会

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 25, 2017 at 10:13午後 PST 【福岡市南区の教会内部。2017年12月24日、クリスマス礼拝前に撮影】 2017年のクリスマスイブ、 福岡市南区にある小さなプロテスタント系の教会のクリスマス礼拝 に参加した。 日本の他の都市同様、1960-70年代に急速に都市化が進み、 鉄道の整備が追いつかず昔からの県道や市道はラッシュ時の渋滞が 激しい地域にその教会ある。 2005年に開業した地下鉄七隈線のルートからも外れている地域 である。 強いて言うなら、 福岡都市高速の環状線と国道202号のバイパスが近くに整備され ているのがせめてもの救いである。 プロテスタント系の教会は、 16世紀のイエズス会の布教活動などの影響で九州に多いカトリッ ク系のそれと異なり、デザインや内装は簡素である。 ‘17年9月の東京旅行時、日曜礼拝に参加した、 やはりプロテスタント系の上馬キリスト教会(東京都世田谷区) もだが、今回訪問した教会も、 長崎や天草の教会に漂う中世的な雰囲気よりも単純明快なものを感 じるのである。 キリスト生誕に関連する福音書ルカ伝の一節の紹介と讃美歌の唱和 が行われ、 中村哲氏の活動で有名なペシャワール会などへの寄付の募集も行わ れた。僅かではあるが、筆者も寄付した。 その後、宮沢賢治の作品を基にした朗読劇も行われた。 礼拝に参加しながら思ったのは、『 人間は孤立しては棲めない生物(『人間の集団について』 75ページより)』なんだ、ということである。 福音書ルカ伝の一節を聴き、(当時とは異なるのだろうが) 行ったこともない乾燥地帯であるパレスチナの風土を勝手にイメー ジし、 21世紀と比べると苦しかったであろう環境の下で助けあって生き ていく人々、 その中で人々のよりどころとなったキリストの姿を想像した。 筆者も例外ではなく、日本人は宗教観が薄いとはいわれている。 宗教とは違うかたちでの相互扶助の仕組みが成り立っていたのかも しれない。 ともあれ、寄付や礼拝の雰囲気から、 教会が小さいながらも人々の拠り所になっていること、 小さなコミュニティであっても『ここに居ていいんだ』 という拠り所があ...

大多数、神聖、脅迫:クリスマスシーズンに思ったこと

#christmastree #december13 #december2017 #tenjin #fukuokapics #天クリ #天神地下街 #クリスマスツリー #portraitmode #ポートレートモード #ウインターファンタジアてんちか Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 23, 2017 at 8:28午後 PST 【天神地下街のクリスマスツリー。2017年12月撮影】 #Londonbus #パディントンを探そう #december2017 #december24 #tenjin #fukuokapics #opentopbus #ロンドンバス 映画の宣伝用の広告バス2階席より。 寒いのと風邪のため巡回ツアーは断念し停車中の撮影のみ行った。 Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 24, 2017 at 4:26午前 PST 【クリスマスイブの天神界隈。イベント用のロンドンバス車上より2017年12月撮影 『日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫』であると、司馬遼太郎は『街道をゆく 陸奥のみち 肥薩のみち』の中(文庫版67ページ)で、東北地方への稲作の拡大の過程についてこのように述べている。 この他にも、『街道をゆく』シリーズの他の作品で日本人が中央への均一化を志向する傾向があることを司馬は指摘している。 ところで、日本のクリスマスシーズンは、1980年代の平成バブル期以降だが、恋人や伴侶と過ごす、夜は閨で愛を語り、結ばれることが最上のもの、という『かたち』が出来上がったように思える。 さまざまな事情があって恋愛関係というかたちの交際ができない人々、婚姻関係という人間のつながりがつくれない人々、家族という人間の集団の形態をつくれない(あるいは崩壊している)人々、など、このホリデーシーズンを心から愉しめない人々のことを忘れてはいないか。 そういう立場の人々に、愉しむことをお仕着せがましく押しつけようとしていないか。 また、華やかな世界を誇示し、己が優位であることに酔い、驕るようなことはないか...

2017-2018年の『文明』のかたち:インスタグラムについて

#imasora #sunset #eveningsky #fukuoka #ropponmatsu421 #december2017 #december13 #六本松421 #イマソラ #夕焼け Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 13, 2017 at 12:38午前 PST 【夕焼け。2017年12月、福岡市中央区・六本松421にて撮影】 『文明』というものはどんなものか。 以前読んでいて、このブログのために読み返している『 アメリカ素描』で司馬遼太郎がこのように解釈している。 『文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・ 機能的なもの」を指すのに対し、 文化はむしろ不合理的なものであり、特定の集団(たとえば民族) においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。 つまりは普遍的でない。』(『アメリカ素描』文庫版18ページ) この一節からふと思い出したものが、2017年の日本で『 インスタ映え』という言葉を産み出した『インスタグラム』 のことである。 ちなみに、 このインスタグラムの由来についてはこの記事を参照していただき たい。 http://cajon.co.jp/blog/%e3% 80%8cinstagram%e3%80%8d%e3%81% a8%e3%81%84%e3%81%86%e5%90%8d% e5%89%8d%e3%81%ae%e7%94%b1%e6% 9d%a5%e3%80%81%e3%81%94%e5%ad% 98%e7%9f%a5%e3%81%a7%e3%81%99% e3%81%8b%ef%bc%9f/ 『「Instagram」は「Instant Telegram」を略した『造語』です。   「Instant」は「即席、その場で」、「 Telegram」は「電報」という意味を持っています。  つまり、「Instagram」 は写真をその場でインスタントカメラのように手軽に撮影、 そして電報のようにアップロードできるアプリであることを意味し ています。』 『写真の「撮影」、「加工」、「共有」に焦点が絞られ、 写真に特化した、シンプルで必要なことが兼ね備え...

この世でいちばんつよいもの

#エルメスの手しごと #hermes #atelier #アトリエ #時計工房 #clockmaking #jr博多シティ #ポートレートモード #portraitmode Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2017 10月 19 5:44午前 PDT 【ブランド物の装飾品は時として富の象徴となる。博多駅・JR九州ホールにて2017年10月撮影】 小異と大同団結の話を先に書いたが、日本で保守系の党派が( 分派争いがないとはいえないが) 半世紀以上も一大勢力を維持し続けているのは、 果たしてどういうわけなのか、ちょっとだけ考えてみた。 つまるところ、『金(カネ)』じゃないか、と思った。 権力を握る人は人間の欲望に一種忠実であり続け、 とりわけ貨幣経済の世界で欲望を実現するときにも使われる金を握 り続けているのではないか、と思ったのである。 日本で政治権力を握り続けているのは基本的に保守的な男である。 金以外にも、男特有の欲望(明け透けにいえば女に対する支配欲) もまとわりつくのだろうが。 当ブログでは何度も引っ張り出しているが、司馬遼太郎の『 人間の集団について』より引用する。 『サイゴン政権(旧南ベトナム)下における政治的正義とは、 金である。』(文庫版84ページ) これは南ベトナムだけとは限らないのかもしれないが、 国を動かすためには、人びとの生活のためには、 自分の富の多寡や地位を示すためには、 今の社会では金が必要な局面が出てくる。思想信条を問わず。 現在のホーチミン市の保育園を見学した、 当時現地在住であった医師久保田氏の逸話より。 『(久保田氏の)友人が、子供たちに「 世界で一番強いものはなにか」と、きいた。 原爆と答えた子が、一人か二人いた。しかし、他はそろってお金、 と答えたそうである。サイゴン(現在のホーチミン市) はそういう世界である。』(文庫版86ページ) 『この世で一番つよいものは金、 というのは哲学ではなく保育園児さえ知っている単純な事実なので ある。』(文庫版87ページ) 綺麗事だけで権力を奪うことができないだろう、と斜に構え、 特に日本の場合には左派やリベラル派を腐し、 保守派の半ば永続的な支配を消極的とは...

『小異』へのきびしさ

#autumnleaves #autumncolours #sagaprefecture #saga #九年庵 #紅葉 #紅葉狩り #november16 #portraitmode #ポートレートモード #photo_shorttrip Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2017 11月 16 4:19午前 PST 【同じように見えるがひとつとして同じ形のものはない。モミジ。佐賀県神埼市・九年庵にて2017年11月撮影】 国政選挙前、 特にTwitterの一部の界隈でよく見かけたことだが、 それまでは良好な(そう見えるだけなのだろうが) 関係だった人々が、意見の相違やはたから見れば些細なこと( 当事者には重要なことだが)で分かれ、 時には敵対関係にまで変化していくことがある。 『小異を捨て大同団結』というのは理想的であるが、 1970年代に司馬遼太郎がこのような指摘を残している。 『中国人をのぞき、 アジア人は一般に小異にきびしくて大同を忘れるところがあり、 この点は日本人の場合もかわらない。 ただ日本人は商売をするときに会社でやるために、 会社への忠誠心という別の場でそれが保たれている。 一般にアジア人というのは知識人になればなるほど小異にやかまし くなり、小異についての論理がするどくなる。』 (『 人間の集団について』文庫版143-144ページ) これまで見てきた政党の離合集散やかつての『内ゲバ』 のことを思い出すと、 この司馬の1970年代の指摘にあるような宿命が、自分達の集団に関する意識、とりわけ政治に 対する意識につきまとっていることを、私たちはもっと理解しておくべ きなのでないか。 『人間の集団というのは、多くの場合、敵によって成立している。 敵を持ってしまった集団というのは、 じつは敵によって集団の理性と感情を作らされてゆくために、「 同じ民族じゃないか」という勝海舟的な発想は、 通用しなくなるものらしい。』 (195ページ) 一度対立し絶縁どころか下手すれば憎悪を剥き出しにしかねない関 係に陥り、時には『転向』することもある分野( 日本だと特に接客業では政治や宗教やスポーツだと注意するよう教 育される)について話題にし、 突っ...