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『とほうもない人間喜劇、もしくは悲劇』としての『関ヶ原』

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2018年 7月月10日午後11時24分PDT 【  http://onthewayinkyushu. blogspot.com/2018/07/blog- post.html  の続きである。】 約1ヶ月かけて、『とほうもない人間喜劇、もしくは悲劇』 である『関ヶ原』を読了した。 『太閤』豊臣秀吉没後の勢力争い、 幹部達の性格や仕事ぶりなどから生じた確執や対立、 権力闘争としての『天下取り』への欲望、そして個々人の感情。 それらがないまぜになり、 1600年9月の関ヶ原の合戦に至ったストーリーを歴史資料や取 材に基づき、稀代のストーリーテラー・ 司馬遼太郎が壮大なファクションとして作り上げた作品である。 本作を読み、筆者は司馬が『国民作家』 としてブレイクした理由が、 キャラクター設定において歴史上の人物を一人一人の読者同様の『 ナマ身の人間』として作り上げた(というよりも、 浮かび上がらせた)こと、 筆者が読んでみて思っていたよりもスラスラ読めるような文章を書 ける能力があったこと、そして、 読者をキャラクターに感情移入させるストーリー展開にあったので はないか、と思った。 ロマンチシズムを取るかリアリズムを取るか。 狡猾かつ計算高く『天下取り』 という目標をひたすら追求する徳川家康のキャラクター。 石田三成なども含めて、 周囲のキャラクターがそれぞれの長所短所を出し、 欲望や野望や己の信念に従って行動するストーリー。 『読めばわかる』といえば雑だが、まさに『 とほうもない人間喜劇・悲劇』だと思う。 上巻にある石田三成と島左近の会話のシーンより、三成( そして豊臣方)の敗北、そして『城塞』 における豊臣家の滅亡を示唆する、 島左近の台詞があるので紹介しておきたい。 『町の繁昌が豊家(註:豊臣家) のおかげだと申されるのはあとかたもないうそじゃ。古来、 支配者の都府というものに、人があつまるのが当然で、 なにも大坂にかぎったことではござらぬ。 利があるから人があつまる。恩を感じてあつまるわけではない。』 『大坂が繁昌であると申されるが、 それは都心だけのことでござる。郊外二、三里のそとにゆけば、 百姓は多年の朝鮮ノ役...

『関ヶ原』を読んで その1

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2018年 6月月21日午後8時21分PDT 『…ヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。 その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。 そういうぐあいに、話をすすめよう。』 (文庫版10ページ) という冒頭の一節に惹かれて読みはじめた『関ヶ原』。 上巻は石田三成と加藤清正の確執、 それを野望のために利用する徳川家康を軸にストーリーが進む。 文庫版71ページにある三成の家臣・島左近のセリフより。 『古来、支配者の都府というものに、人があつまるのか当然で、 なにも大坂にかぎったことではない。利があるから人があつまる。 恩を感じてあつまるわけではない。』 『…豊家(豊臣家)の恩、豊家の恩と殿(三成)はいわれるが、 そのかけ声だけでは天下はうごきませぬぞ』 これは司馬の考えの基にある、リアリズムの表れではないか。 司馬自身の考えを登場人物に喋らせているのだろう、 と筆者は思った。 司馬のキャラクター設定より。 豊臣秀吉の天下統一後、 官僚的統治機構による国家運営の重責を担うこととなった石田三成 。 ロジスティクスに関する才覚や重商主義的な地方経済の活性化策の 成功を受けて、三成は秀吉に重用されることとなった。 彼の性格や癖、仕事ぶりは時として人に疎まれがちであった。 文禄の役・慶長の役(韓国では壬辰倭乱と呼ばれる)での『活躍』 を自負している加藤清正などの武断派は、 三成に対し確執があった。 彼等の性格の相違や政権内での確執が、 その後の関ヶ原合戦や大坂冬の陣・ 夏の陣による豊臣政権の崩壊の遠因ではないか、 と司馬はみていたようである。 三成が『正義』というものを重視する性格であるという設定。 曲がったことを嫌う、感情が表情や癖に出るところ、 これは筆者の短所にも似ているように思えてきてならなかったので ある。 三成の登場シーンを読むたび、 自分のことを書かれているような気分になっていった。 権力闘争や国家運営の過程に限らず、 家族間や恋人同士であっても側から見れば些細なことに見える( 当事者には重大なものごとであろうが) 性格の相違や確執というものは生じうるものである。 その相違...

フェイクニュースと中世の激情

Takehisa Matsuda - Lifelogさん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 10月 21, 2017 at 5:49午前 PDT 【旧い街並みが寺社仏閣とともに21世紀の今も残る博多区御供所町。2017年10月撮影】 『人間が政治の面で歴史時代より利口になったというのは、 ほんのわずかな部分でしかない。』(『人間の集団について』 文庫174ページ)ということを、時には思い出してみたい。 この写真で撮った街並みが、商品経済・貨幣経済や国際貿易の影響を受け続けてきた博多に出来たころと比べて、人間の社会に対する感覚は『進化』しているのだろうか。 時々、ジェンダー問題や労働問題や社会福祉の問題をみて、 2010年代の日本をまるで中世だと皮肉る人がいる。 中世とはどんなイメージだったのか、 ということを読み返してみた。 『アメリカ素描』376-379ページより引用したい。 『中世という時代規定はあいまいだが、…中世にあっては、 モノやコト、 あるいは他者についての質量や事情の認識があいまいで、 そこからうまれる物語も、また外界の情景も、 多分にオトギバナシのように荒唐無稽だった。… そういう認識の空白のぶんを大小の宗教がうずめていた。』 『近代においては、社会をおおった商品経済(貨幣経済)が、 人間をそれ以前の人間と訣別させた。学校ではなく、社会が、 モノやコト、あるいは自他を見る目を育てたのである。』 司馬遼太郎の小説は、筆者は『城塞』や『酔って候(短編集)』 を読んだ限りだが、 ロマンチシズムとリアリズムの相剋というテーマが底流にあるように思え る。 リアリズムの影響力がはっきりしてきたのが近代であるというよう にみえる。 とはいえ、 人類の歴史が中世と近代で完全に分断されているわけではない。 人間の性質は、 どれだけ時代が流転しても変わらないところは変わらない。 『中世では個々の人間が激情に支配されたが、 近代にあっては個々のなかではむしろそういう感情が閉塞し、 どういうわけか集団になったときに爆発する。 中世の激情が集団の中でよみがえるといっていい。 むろん、爆発にいたるまでには、 揮発性の高い言論が先行している。』 この一節、 私たちの文明社会は中世の地続きにある、ということを あらわしているように思...

完全アウェイの世界で生き残ること--2015年のフィリピンにて

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【フィリピン・セブ市内。2015年6月撮影】 【セブ州庁舎。2015年5月撮影】 2015年の初夏、筆者はフィリピンに滞在していた。 当時はアロヨ大統領のもとで( 過去から続く種々の格差や治安の問題があるにせよ) 比較的平和に人々が過ごしていた。 転職活動の傍ら、中部ビサヤ地区のセブ市で、後学のため、 サバイバルのため、英語の勉強を本気でやろうと思ったのである。 近年、フィリピン国内は東アジアに近いこともあり、 韓国人や日本人向けの短期留学の語学学校が次々と設立されている 。 いわゆる先進国との経済格差や貨幣価値の違いもあるが、 米国や英国への留学より費用が安く済むことが大きな要因である。 元々、 フィリピンは日本より言語圏や文化が細分化された島国であり、 かつての米国統治の影響もあり、 英語が一定水準以上の教育を受けた階層で普及している。 現在ではASEAN圏の一国として経済成長が進んでいるが、 英語が使えて母国より(職種によるが) 稼ぎのいい米国やカナダなどの英語圏への出稼ぎも多い。 語学学校の若い講師たちや市内の人々は、どこか楽天的というか、 『坂の上の雲』っぽくいえば、 『登っていく坂の上の青い天』の『一朶の白い雲』 のみを見つめて『坂を登ってゆく』ように思えたのである。 当時ボクシング界でブレイクしていた、フィリピンの英雄マニー・ パッキャオの生い立ちも、国民的な人気の空気も、まさにこの『 坂の上の雲』の冒頭のように筆者には映ったのである。 社会科で人口構成のことを扱ったことがあればピンとくるだろうが 、フィリピンの人口構成を考えると、かの国は『少年の国』 であると思った。 いわゆる『発展途上国』 のくくりで日本から見られていた時期が長かったためか、 国の歴史としては短くはないが、経済発展だけみれば筆者には『 少年の国』にも見えたのである。 彼らを含めた当時の同志たちと学校にこもり、 時々街中や郊外の観光地にでかけた。 そんな中、自分たちは経済格差の上に生きている、 彼らに一種の犠牲を強いているんだ、ということも感じた。 また、日本人が明らかに少数派である空間に身を置くことで、 基本的に日本人しか見かけない空間が例外的なものだということを 知ることができた。 たいていの人は、海外旅行するときは『地球の歩き方』 などのガイド本を持っていくが、筆者は『...

2017-2018年の『文明』のかたち:インスタグラムについて

#imasora #sunset #eveningsky #fukuoka #ropponmatsu421 #december2017 #december13 #六本松421 #イマソラ #夕焼け Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 12月 13, 2017 at 12:38午前 PST 【夕焼け。2017年12月、福岡市中央区・六本松421にて撮影】 『文明』というものはどんなものか。 以前読んでいて、このブログのために読み返している『 アメリカ素描』で司馬遼太郎がこのように解釈している。 『文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・ 機能的なもの」を指すのに対し、 文化はむしろ不合理的なものであり、特定の集団(たとえば民族) においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。 つまりは普遍的でない。』(『アメリカ素描』文庫版18ページ) この一節からふと思い出したものが、2017年の日本で『 インスタ映え』という言葉を産み出した『インスタグラム』 のことである。 ちなみに、 このインスタグラムの由来についてはこの記事を参照していただき たい。 http://cajon.co.jp/blog/%e3% 80%8cinstagram%e3%80%8d%e3%81% a8%e3%81%84%e3%81%86%e5%90%8d% e5%89%8d%e3%81%ae%e7%94%b1%e6% 9d%a5%e3%80%81%e3%81%94%e5%ad% 98%e7%9f%a5%e3%81%a7%e3%81%99% e3%81%8b%ef%bc%9f/ 『「Instagram」は「Instant Telegram」を略した『造語』です。   「Instant」は「即席、その場で」、「 Telegram」は「電報」という意味を持っています。  つまり、「Instagram」 は写真をその場でインスタントカメラのように手軽に撮影、 そして電報のようにアップロードできるアプリであることを意味し ています。』 『写真の「撮影」、「加工」、「共有」に焦点が絞られ、 写真に特化した、シンプルで必要なことが兼ね備え...

この世でいちばんつよいもの

#エルメスの手しごと #hermes #atelier #アトリエ #時計工房 #clockmaking #jr博多シティ #ポートレートモード #portraitmode Takehisa Matsuda - Lifelog さん(@matsuda_take)がシェアした投稿 - 2017 10月 19 5:44午前 PDT 【ブランド物の装飾品は時として富の象徴となる。博多駅・JR九州ホールにて2017年10月撮影】 小異と大同団結の話を先に書いたが、日本で保守系の党派が( 分派争いがないとはいえないが) 半世紀以上も一大勢力を維持し続けているのは、 果たしてどういうわけなのか、ちょっとだけ考えてみた。 つまるところ、『金(カネ)』じゃないか、と思った。 権力を握る人は人間の欲望に一種忠実であり続け、 とりわけ貨幣経済の世界で欲望を実現するときにも使われる金を握 り続けているのではないか、と思ったのである。 日本で政治権力を握り続けているのは基本的に保守的な男である。 金以外にも、男特有の欲望(明け透けにいえば女に対する支配欲) もまとわりつくのだろうが。 当ブログでは何度も引っ張り出しているが、司馬遼太郎の『 人間の集団について』より引用する。 『サイゴン政権(旧南ベトナム)下における政治的正義とは、 金である。』(文庫版84ページ) これは南ベトナムだけとは限らないのかもしれないが、 国を動かすためには、人びとの生活のためには、 自分の富の多寡や地位を示すためには、 今の社会では金が必要な局面が出てくる。思想信条を問わず。 現在のホーチミン市の保育園を見学した、 当時現地在住であった医師久保田氏の逸話より。 『(久保田氏の)友人が、子供たちに「 世界で一番強いものはなにか」と、きいた。 原爆と答えた子が、一人か二人いた。しかし、他はそろってお金、 と答えたそうである。サイゴン(現在のホーチミン市) はそういう世界である。』(文庫版86ページ) 『この世で一番つよいものは金、 というのは哲学ではなく保育園児さえ知っている単純な事実なので ある。』(文庫版87ページ) 綺麗事だけで権力を奪うことができないだろう、と斜に構え、 特に日本の場合には左派やリベラル派を腐し、 保守派の半ば永続的な支配を消極的とは...